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サラリーマン自立論  社員A

社員A
2000.1.24

「サラリーマン芸者論」の続編である。

 なぜ、芸者になってしまうサラリーマンが少なくないのか。それは、カイシャから外に出たら生きていけないと勝手に思い込んでいるからではないのか。
 たいていの人は、高校、大学の教育を終えると実社会の経験なしに、ほぼまっすぐ就職してしまう。だから会社員である以外の自分の姿を想像することすらできない。それ故に組織から外に出てしまった場合、自分で餌を取って生きていくことはできないだろうと思い込んでいるのではないだろうか。
 自分の力だけで稼いだ経験が皆無であれば、実務経験を積んだ後でもカイシャから外に放り出されれば自分がどれだけ稼げるかはわからない。むしろたいていのサラリーマンは、「この船から海へ放り出されたら、自分は泳ぎ切って岸にたどり着けないだろう」と思い込んでしまっているのである。まあそれも、わからぬ話ではない。

 大企業から出てしまっては、生活の糧を得ることができないのなら、できるだけカイシャの中で気持ちよく暮らせるようにやっていくしかない……という発想が芸者への第一歩である。芸者型社員の辞書の定義では、個人個人がバラバラでは、とても食べていくことができない人が集まって生活するために作った組織、それがカイシャなのだ。
 しかし、それでは企業として儲けが上がらないのは当然だ。本来は個人個人がバラバラでも食べていくことができる人たちが、さらに大きく稼ぐために力を合わせようと集まったというのが、カイシャ本来の姿なのではないだろうか。
 人は、本来自分で稼ぐことができるはずなのだ。

 ある友人と話していて、こんな話を聞いた。会社に勤めているということは、給料をいただくという経済面以外にもいくつかの効用がある。
 とりあえず会社に行けば、なんとなく時間を過ごすことができるし、仕事をした気になることができる。自分の居場所を確保したような気がする。また、学校と同様に気心の知れた仲間がいて、そこそこのつきあいのある人間関係を作ることができる。そしてうまくすれば、自分に取って居心地の良い場とすることもできるだろう。

 しかし、競争環境が激しくなり、カイシャはサラリーマンにとってこうしたパラダイスとして成立し得なくなってしまった。賃金については、激しい格差を付ける「能力主義」の導入は避けられない。ガリガリ働いてさらに出世しようと頑張っている社員は1000万円の年収をもらって、そんなにせかせかせずにゆるゆるいこうという社員は同年輩でも400万円程度の年収ということも不思議ではなくなるだろう。
 そのとき、400万円程度の年収しかなくても、それで満足という考え方でもいいではないかと友人は言うのだ。もちろん、それは個人の価値観であるから、まったく問題ではないと思う。
 そして、そういう生き方を選択したい人は、カイシャに属して競争の中でもみくちゃにされ、また嫌な上司にゴマを摺ったりお追従をして神経を病むよりも、会社を辞めても生きていくことができるのなら辞めた方が本人にとって幸せだろう。

 雇用条件を守るために首切りされた一部の社員には、「自分には価値がないのではないか」と考える人が少なくない。なぜなら、カイシャに属していないと、「働く」ことにはならないと誤解しているからだ。そんな考え方はナンセンスだ。人はカイシャを離れても稼いでいくことができるし、それはれっきとした仕事なのである。

 そう決断したならば、別にカイシャに属さなくとも十分に生きていくことができる環境が、情報通信技術の発達によって整いつつあるのだ。インターネットの登場と普及が、サラリーマンの個人としての復権を助けてくれるものと私は考えている。
 次回は、インターネットとサラリーマンの自立について考えてみたい。

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