ちびちび読んで、やっと読了しました。前半はソロンの改革から、クレイステネスが古代民主政を完成させるまで。後半はテミストクレスが、怒濤の勢いで攻めてきたペルシャの大軍を撃破する様子を活写しています。
これ読んで思ったのは、「この本が描いてるのは、民主政じゃなくて、リーダーたちの事績じゃん」ということです。
考えてみたら、帝政でも、貴族政でも、共和政でも、近代民主政でも、国運を転回させるのはリーダーですよ。他の誰でもないですよ。
「じゃあ、専制政も民主政も変わりないじゃん」という話かというと、そうではなくて、民主政はよりすぐれたリーダーを選び出し、リーダーの働きを扶助することによって、国力を最大化するシステムということなんじゃないですかね。
だから、民主政においても傑出したリーダーの妥当な選出と、彼に従うフォロワーシップの重要性は普遍であることを示していると思います。
仄聞するところ、幻冬舎が左翼勢力のお先棒担ぎの西田亮介なる学者に使嗾されて
『民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』なる本を復刻したらしい。
高橋源一郎がたいそう褒めてるんだけど、これって単なるアメリカのプロパガンダなんですけど。
「眞相はかうだ」と同じたぐいのものなんですけど。そんなにアメリカが好きなみなさんでしたっけ? じゃあなんで米軍基地が嫌なのかな?? まあ、日本国憲法も実は同じレベルのものでしかないんだけど。
で、この人たちは、民主主義というのは、英雄でも超人でもなく、「普通の人」を信頼する制度だ、と盲信しているわけですが、その根拠としてファシズムやら武士道を徹底的に排除しようとしたアメリカの占領政策に求めるというのは、あまりに浅はかすぎるんじゃあないですかね。
「ふつうの人」を信頼したいんなら、安倍ぴょんなんかじゅうぶんふつう過ぎる人だと思うんですけど、何か不満があるんですかね、むつかしい人たちだな。
詰まるところ、なんとクソ左翼どもは、70年前のプロパガンダに依拠して、「民主主義」を定義しようとしている。西田や木村草太は底が浅い。シールズ同様。こんな戦後のすり減った宣伝紙に、いまさら頼らないといけないのは、まさに左翼の貧困の証左だと思いますね。
本当の民主主義には、すぐれたリーダーを選んで力を発揮させることで全体最適を実現するための知恵が含まれていないと、「民主主義」とは呼べないんじゃないですかね。
阿呆が集まって官邸前で太鼓を叩いても、なんの意味もないってこってすよ。
要するに、田舎者には民主主義は根本的には理解できないんですよ。上下関係の中に自分たちを組み込まないと、どうしていいかわからないんでしょう。
そうした自分たちの心根のそこに横たわっているモノが怖いから、反動的に絶対的な地位の平等を求めている。異常なまでの平等主義への執着です。でもその根本は、「自分たちは専制主義がほんとは好きなんだよう」と白状しているようなものです。
塩野さんが書いている古代民主政は、リーダーを信頼し、民が力を合わせてサポートする仕組みのことだと思います。アクロポリスで太鼓を叩いていても、ペルシャにあっさり滅ぼされるだけですからね(実際、疎開せずに死んでしまったそういう一群がいたことにすら触れられています。左翼の末路を思わせます)。
人間は2500年前に、民主政という優れた制度を獲得した。帝政期のローマ人も、このことに敬意を払っていたんです。やがてそれは失われてしまいましたが、ルネサンスによって復活しました。
ルネサンスは「文芸復興」などではなくて、「精神革命」だったんです。
まあこれを「文芸復興」などと翻訳している人たちは、かたちだけの民主主義を与えられても、根本が分からないので優秀な人ほど教条主義になっちゃうんだと思います。
戦後70年たって左右共にまだこれだけ未熟なのは、田舎者だからだと思いますけどね。