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「会議」不適応症候群の治し方【1】  はち 

はち 
情報通信
銀行担当SE
2000.1.13


 コミュニケーション能力がほとんど欠けている人が存在する。そういう人が我が社の社員であり、私の身近にいたりする。同じ会議に出席していることもある。
 彼らはなぜ、会議の席で、人の話を「聞いて」、それに対する自分の意見を「話し」、お互いの「意見を尊重」しつつ、組織としての意見にまとめるために「議論」するという、当たり前のことができないのだろうか。

 こういう人が話の流れをかき回す会議は、、成果が上がらず、時間だけが無駄にすぎてしまい、会議が終わった後で「いったいなんの会議だったのだろう?」というモヤモヤした疑問と、時間の無駄という虚しさだけが残る、後味の悪いものになってしまう。そして、それが毎度のことであると、「会議をやる」と聞くとうんざりしてしまう。

 会議の善し悪しは、議事進行を行う人のリーダーシップ能力と、参加者の議事進行への協力(貢献)にかかっていると思う。勿論、参加者全員が、生産的な議事の進め方、有効な議論の仕方など「議論の基本的なルール」にのっとっていることが前提である。

 ところが、この基本的なルールを知らない、あるいは無視する社員が多いのである。そういう人の会議での態度は、例えばこんな感じだろう。また、こうした参加者の態度を許す社内文化がある。
・ 「ディスカッション」とか「ブレインストーミング」とか口では言うものの人の意見をほとんど聞こうとしない(尊重しない)。
・ 面子が先に立って、部下の意見がいくらよくても採用しない。自分の主張以外は、決して認めようとしない。
・ 人の揚げ足とりをしたり、建設的な意見をいわない。
・ 斬新な試みを試す「場の雰囲気」を受け入れる勇気がない。
・上司や「場の雰囲気」に沿った意見しか言わない。
・ 目先の利益状況の判断だけに意見が偏り、大局に立って抜本的に改善するような意見をいわない。

 もともと、日本人の社会は村社会であり、個人がはっきり自分の意見を発言する文化はない。 何となく「暗黙の了解」、「場の雰囲気」というもので物事が決まり、それについてあからさまに反対を唱えたり、疑問を持っているような素振りをみせると、たちまち村八分になる。曖昧模糊とした意志決定プロセスをとってきている。

 社内だけでなく、家庭においても、何かについて徹底的に語りあったり、議論する文化はなく、「以心伝心」、「あ、うん」の呼吸で「つー、かー」の仲で、「親の背中を見て育つ」のである。学校教育でも、ディスカッションやディベートのしかたを、国語の授業で習うことはなかった。
 不思議なことに義務教育において、自分の考えを人に「話すこと」、「わかってもらうこと」や、「書くこと」(読書感想文などは書いた記憶はあるが)、すら習った記憶がないのである。つまり、日本人はコミュニケーションの取り方を学ぶことなくに大人になるわけだ。

 しかしながら、規制が緩和されグローバル化が進んで、価値観が多様化しつつある今日のビジネス世界では、日本固有の「村文化の意思決定プロセス」では、もはや通用しないのではないだろうか。こうした社内文化に縛られた企業では、他社に太刀打ちできるはずはないのである。そんなことにも気づかない社員を多数抱え込んでいる企業に未来があろうはずはない。

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