不 流
2000.4.7
最近不思議に思うことをひとつ。
世の中で「過労死」という言葉があります。ランダムハウス等にも載っていて、既に世の中に定着している造語ですが、ビジネスマンのひとりとして、これほど「過労死」をされた当人の尊厳を否定する言葉はないと思うのです。
そもそも、人間は「過労死」できる動物なのでしょうか? 地球上の生物で「過労死」ができる生物を小職は知りません。
生存欲求が本能としてある限り、電気系統でいうところのヒューズが必ず働いて、「過労死」をする前にその行動を止めてしまうことが、生物として正常なのではないでしょうか。それが分かっていて止めれないとするならば、それはむしろ、「中毒」つまり病気であるか、あるいは脅迫や強要をもってする「奴隷労働」ということになってしまいます。前者であれば、病理を解き明かし予防措置なり、治療なりを真摯に議論すべきですし、後者であるならば、労働基準局の仕事です。
但し、中世や「蟹工船」の世界でもあるまいし、後者が世の企業で成り立つとは俄かには信じられません。立派な意思をもった大人が強要や強制で労働していると認めてしまうこと自体、亡くなった方の、個としての自立性を否定するものだと考えられます。「強制労働」という発想自体、仕事は「嫌なもの」、「やらされるもの」ということを前提にあまりに単純化したものの見方だと思います。
そうではなく、故人が自発的にプロジェクトなり新商品開発なりに寝食を忘れて取り組んだ結果、心臓発作やクモ膜下出血等で亡くなったという場合はどうでしょう。世の中では、このようなケースに対しても「過労死」という言葉を当て嵌めますが、此れほど故人に対して失礼なワーディングはありません。
「日本の会社」でも議論されているように、「人間追いつめられてプロになる」のであって、誰にだって同じ状況に追い込まれることはサラリーマン人生のうちにはあります。その際、志半ばにして病に倒れるということだって十分にあります。この場合には、「殉職」という言葉が適切なのであって、「中毒」や「強制労働」の結果としての「過労死」とは明確に区別すべきだと思います。
不用意につかう言葉が往々にして人の尊厳を傷つけてしまうことがあります。自戒したいものです。