旧日本人のメンタリティー■
絶対平等主義
パフォーマンスの低い人の報酬や労働条件に、全員が「平等に」合わせるという「平等主義」
「出る杭は打つ」ものの、決定的な敗者も作らない
旧日本人の信念として守り続けている「平等」とは、カイシャにおける絶対的な権威(社長・会長など実権者=いわゆる天皇)の前における平等を意味している。
ピラミッド組織の中にある平等感の本質は、結果平等と機会不平等だ。ピラミッド組織の中でいくら出世しても、天皇の前では平等であり、報酬も平準化されている。ゆえに個人に、実力を伸ばすチャンスを与えることもあまり重視しない。天皇に対する平等意識が、「ピラミッド組織の中の"秩序維持"を絶対視する平等意識」に転化しているのだ。
秩序の維持を前提とする旧日本型組織においては、「出る杭」は打たれる。旧日本人にとっては、毎日毎日足の引っ張り合いをすることが仕事への目配りよりもよほど重要なことなのだ。こうした環境では人と少しでも違う振る舞いに及んだり、あるいは服装が少々違うだけでも「目をつけられ」てしまうから、どんなに個性的なファッションを目指すにしても、みんなと同じ「流行」の範囲から逸脱しないように気を配らなければならない。「組織的に許される限界」を知るセンスこそ、旧日本人の美学の真骨頂である。
ともすれば上下や周囲との関係維持に気がとられるので、新しい戦略を描くなどという高度なことをする暇はないし、いまやっている仕事のあり方を変えるインセンティブがないので、「業務は常に改善する必要がある」とは考えもしない。「業績を左右するのは、市場環境と運以外にはないのだから、自分一人が何をしてもたいしたことにはならないだろう」とあなたまかせ風まかせに生きている。
そんなことでは組織効率が下がってしまうが、結局、パフォーマンスの低い人の報酬や労働条件にみんな「平等に」合わせるということで帳尻を合わせてしまう。
ここでは、「出る杭は打つ」ものの、逆に決定的な敗者もつくらないというところに注目が必要だ。一般的に、「会社を潰してはならない」という意識があるが、これも「非効率を正すより既存の秩序を守る方が大切だ」という意識の裏返しに他ならない。
つまりは「生かさず殺さず」の飼い殺しのシステムなのである。組織のパフォーマンスが向上せずとも気にしないし、誰かが失敗をして共同の利益が損なわれたとしても、同じ組織に属する者がみんな同じように被害を被るのであれば、それには耐えることができる。旧日本人の「平等」観には上方硬直性があり、それは新しい価値の創造を妨げる大きな要因でしかない。