旧日本人の仕事観■
向上心欠如
「今の仕事をずっと続けていれば問題がない」と、根拠なく信じている
環境の変化を認識しないので、仕事に対する向上心を持ちにくい
「組織に対する依存性」と、「仕事に対する向上心のなさ」は正比例関係にある。
組織の永続を無批判に信じている旧日本人の中には仕事に対する向上心が全くない人も存在する。彼は「自分で仕事を作り出し、また改善しよう」などとは夢にも思わない。そういう人は、会社の中での目標や楽しさは、「出世」などの生産性のない事象に見出しているようである。
彼らの行動の規範は唯一、他人との協調にある。仕事の成果よりも、他人と行動を共にする方が重要なことだと思っているので、「たとえ早く仕事が終わっても同僚が居残る限り帰らないのが当然」と信じている。こうした「つき合い残業」は、労働生産性を下げるだけなのだが、そういう頭の働かせ方はしない。
また会社を「機能集団」ではなく、「自分の帰属先」と認識しているから、個人で旅行に行っても「土産を隣の課の分まで買ってこなければならない」と思い込んでいる。しかもその土産物の中身たるや、地名が違うだけで中身は同じなのだ。「贈与」というのはかなり原始的なコミュニケーションの手段である。盆暮れの贈答や年賀状も同様である。個人に求められているのは、「挨拶」ではなくて、組織が期待する役割をきちんと果たすことだけであろう。
また、仕事の改善の必要性は認識していても、仕事のやり方を変える時には、上司のご機嫌を損ねぬようにまず上司にお伺いを立て、上司が「時代遅れの知識による時代遅れの指示」を与えたとしても、その無効を知りつつ実行するという人もいる。結果的には、向上心のない人と同じことになってしまうだろう。目的意識がなければ、効率性に対する責任感覚は生まれない。
こんなことでは、事態の進行を先読みして、先手を打って対処する、などということはできない。全てが後手後手の対応になり、状況変化に対応できない。だから問題に正面から立ち向かえず、「状況先送り的対応」が歓迎されるし、「兵力の逐次投入」をしてしまいがちになる。自分が変化をリードする側に立つことができないし、反対に敵から揺さぶりをかけられたらひとたまりもなくやられてしまう。
旧日本人は「仕事とは、強制されたものを淡々とこなしていくことだ」と思っている。「こなしていれば時間は過ぎていくし、ひょっとしたら将来報われることもあるかも知れない」と期待しつつ、小さくなって生きていく。出世に対する小さな我執のために組織のために将来役立ちそうな若手の才能を潰したとしても、なんの問題も感じない。左は江戸時代の小役人の事なかれ主義を揶揄した戯れ歌である。
世の中は 左様でござる ごもっとも なんとござるか しかと存ぜず