旧日本人のビジネス・マインド■
2.生産性、効率性、コスト意識……辞書にない
目標を持たずに仕事している多くの旧日本人は、日常的に効率やコストを無視して行動している。コピー用紙やタクシー代のような事務経費から、ビジネスプランの根本的な枠組みに至るまで、判断の根拠を効率以外のところに置いている人が少なくない。そして効率性を考えれば絶対にできないようなばかげた選択を平気で行っている。
資本を生かして、利益を上げるためには、効率性を重点的に意識せざるを得ない。資源が乏しい場合は、目標に向かって資源を一点集中する。それに、スピードも援用することによってライバルを凌駕できるという見通しや目算が立てられなければ、資源配分を決定する責任ある立場に座ることは本来できないはずだ。
「日本の技術的優位性は確固たるものだし、現場における効率性向上にはよく気が回るではないか」と思われる向きもあるだろう。それは事実だし、そこに依拠して製品のコンパクト化を進め、それによって優位を獲得した商品も少なくない。東芝のノートブックパソコンなどは北米市場を席巻した。しかし、ユーザーからの代表訴訟に負けて撤退のやむなきに至った。製品は優秀であったにもかかわらずである。その敗因はいったいどこに求めるべきなのか。
日本企業は現場では徹底してムダを排することができる一方で、経営効率は非常に悪い。現場の人間が「われわれにこれ以上いったいどうしろと言うのか」と腹を立てるのももっともだ。旧日本人は、直に目に見えるモノをいじり回す器用さには長けている。問題なのは、現実の事象を数字や概念に置き換えて記号化し、これを取り扱うことによってメタレベルで現実を操作する計数的センスに欠けていることではないだろうか。
経営は数値化された情報を処理する世界である。数字の前に、当該部署の担当者の顔が浮かぶようでは、まともな戦略立案や判断はできない。精密電子機器の配線が相手であれば世界の誰よりも合理的な処理ができるのに、問題が人的資源配置の問題に絡んでくると、変に気を配って話を丸めようとし、どこからどう見ても不合理な選択をしてしまう。旧日本的な仲間主義、集団秩序最優先の発想が、ここで効率性とぶつかるわけだ。そして旧日本人は迷わず、効率性よりも仲間をかばうことを優先してしまう。そこには、「自分もいざとなったらかばって欲しい」という心底が垣間見えないだろうか。それが日本企業の経営の非効率性の大きな理由の一つだと私は信ずる。
つまり本来なら、経営レベルでの問題処理では、「人事」の処断についても、時間や投下資本といった他のコストと同様に数値化して、冷静かつ論理的に処理されねばならない。経営者にはこのセンスがどうしても必要である。
もしも資本をうまく活かして拡大再生産する経営を行えば、人材も結果的には活用できるはずだ。後生大事に、大卒一括採用した社員を同期管理し、有為な人材を中途採用しても外様として冷遇し、仲間主義を貫いた結果全員を腐らせてしまい、経営も誤って会社も潰れてしまうというのでは、「人にやさしい経営」などと威張れたものではない。
しかし旧日本人経営者は相変わらず「効率優先など人非人だ。私は人を大切にしたい」と、自信と確信を持ってのたまうのである。これでは日本経済の先行きはまっくらだ。