昭和初期、日本人は全員、右翼になってしまった
共同体人の持つ恐ろしい負の特性は、旧日本人ビジネスマンに引き継がれている。
生活がひっ迫すると牙を剥く共同体意識
明治維新のときにつくられたこうした巨大な共同体依存的なシステムは、全体主義への時限爆弾のようなもので、その後の日本人の進む道を明確に規定していました。これが太平洋戦争までの挙国一致体制をつくる大きな駆動力になったのだと思います。まず新政府が国家を指導する中で、徹底的な官尊民卑の発想が根づいてしまいました。
明治初期は「なんでも西洋のものを取り入れるのがよい」ということで自由思想も花盛りになったのですが、同時に憲法の制定や議会の設立といった国家の基礎を固めていく中で天皇中心の国家観も浸透していきました。丸山真男によれば明治30年代の中ごろまでに、「帝国的心情体系への臣民の同化過程は終わった」と観察されています。なんせ各学校に教育勅語と天皇の御真影が配られて、神聖なものとしてあがめられていたわけですから。またそのころから日本主義運動のような右翼思想も起こってきました。
明治の日本は富国強兵、殖産興業政策の成功もあって近代国家へとばく進していきました。大正に入ると好景気が続き、その中で民主主義的な政党政治と、華やかな大正文化が花開きました。
しかしよかったのはそこまでで、昭和に入って金融恐慌、世界恐慌で庶民の生活が困窮すると、やっぱり日本人の「共同体依存性」がむくむくと頭を持ち上げてきます。あらゆる勢力が、天皇を持ち上げて自分たちの無理無体を通そうとし、民主主義的なコントロールを制限しようとする動きが激しくなります。
軍隊の中の不満分子や右翼団体も要人暗殺のテロなど活動を活発化させました。生活がひっ迫したためにやむにやまれず活動を先鋭化させてていったわけです。そうした右翼の活動は、だんだん大きくなって日本全体をとり込むようになります。最初は軍と官僚だけが天皇の威を借りて実権を持っていた支配階級だったのに、そこに世の中のありとあらゆる不満分子が流入してくる。依存システムの最も好ましくない側面は、みんながいちばん困ったときに噴出してくるのです。