自分の正当性を物言わぬ天皇に求める
この後、勢いづいた右翼ばかりでなく、政府自体もますます右傾化を進めていきました。国民の教育も、文部省が率先して「国家は家そのものである(=忠孝一致)」ということを「小国民」たちに刷り込んでいきました(昭和12年に文部省が出した「国体の本義」という文書にそれがよく現れています)。
昭和11年2月26日には天皇の名をかたって、近衛師団までが参加したクーデター未遂事件が起こっています。「二・二六事件」です。1400名の軍人の叛乱によって東京は機能を失いました。「農村の疲弊を救いたい」という純粋な動機が、天皇の名を借りた民主主義システムの破壊という形で暴発したわけで、ここまで来るとまっとうな統治システムを備えた近代国家とは言いがたいものがあります。叛乱青年将校たちの書いた事件の蹶起趣意書には、「われわれは天皇のために不義不忠の臣を誅戮するのだ」との主張がありますが、天皇は彼らにそんなことは一言も頼んでいません。ここには「自分の行為の正統性を物言わぬ天皇に求める」という、典型的な絶対権威の利用パターンがあります。天皇が怒ったのは当然です。
「天皇は自分と同じ考え方をしているはずだから、自分がよくないと思っていることは、きっと天皇もよくないと思っているに違いない」という勘違いがそこにあります。青年将校だけでなく、軍部も官僚もこのパターンを利用しているのだから、彼らにしてみれば「何が悪いんだ」という思いがあったかもしれませんね。
つまりこの時期、軍・官僚が占めていた「実権者」のポジションに、右翼をはじめとするあらゆる不満分子が流入していったわけです。かけ声は「昭和維新」でも、やっていることは日本の伝統的な共同体的統治機構、そのなかの「実権者」の地位に割り込もうとしているだけなのです。これが全体主義の構造です。