岡本呻也の現在
インタビュアー 飯坂彰啓
飯坂 岡本さん、今何をやってるんですか。みんな関心あると思うんですけど。
運営者 私が会社を辞めてから、もう早いもので9カ月経ちます。その間何をやっていたかというと、言えないこともいっぱいあるんですが……(笑)。
飯坂 なんか本をお書きになったそうで。
運営者 だいたい2月に思い立って勉強して、3月と4月の間に集中して取材し、4月の終わりから5月一杯にかけて執筆しました。
私はこの取材と執筆に、全てを賭けました。集中しないと書けなかったんですよ。GWも家にこもりきりで(ヒッキー)、ひたすら暗かった。結構地獄でしたね。でも「一冊目の本だから仕方ないかなあ」と思っていました。その間は、自分が幹事をやっている会以外は飲み会にも出ずに、でもその場でもネタの話ばかりしていて、家でも禁酒して3週間以上酒を断ちました。その後酒を飲んだら、すっかり弱くなってしまいました。現在リハビリ中です。
飯坂 それは、そうなりますね。
運営者 とにかく、打ち込みました。他のことに目を配る余裕は一切なかったんです。まあ、もともとがオール・オア・ナッシングの人間なので。それにしても、私がこの本を書くために失ったものはあまりにも大き過ぎて、それを考えただけでめまいがしますよ。自分のバカさ加減に未だに腹が立って夜もろくろく眠れません。だけどとにかく、この時期これを集中して書く以外の選択は私にはありませんでした。それには、いくつかの理由があったのです。
取材の時には、これまでにないほど細心の注意を払いました。まず、「プレジデント」という看板が全く使えなくなるということ。といって代表作もないまったく無名の新人ですからね。さらに、関係者全員が全員「話したい」と思っていることではないことを聞き出さなければならない。もうひとつ問題だったのは、版元の雑誌がやった企画によって、取材対象の業界全体に非常に大きなダメージが与えられていて、この版元で取材するということ自体が非常に警戒されてしまったということ。これらの理由によって、今までの取材とは考えられないぐらいに、注意に注意を重ねた取材を行わなければなりませんでした。
執筆の時に感じていたことは、「本の執筆というのは雑誌の記事を書くのとは全然勝手が違う」ということでした。雑誌の記事だと、どんなに長くても原稿用紙で25枚ぐらいだし、一番違う点は1行の折り返しが雑誌記事だと長くてせいぜい24字、4段組だと17~8字です。それが本だと1行が40字だったりするわけで、文章の息継ぎというのが、全然違ってきます。その感覚をつかむというのはなかなか難しくて、最初に書いた70枚ぐらいはボツにせざるを得ませんでした。
でもそれはまだ小さな問題でした。私が突き当たった一番の壁は、取材対象とがっぷり四つに組んで、取材した事実に真摯に向き合うことの重さについてでした。つまり、私が取材した人々というのは、10年間にわたって全力で生きてきて意味のある仕事をやってきた人々なわけです。その過程でひどい目にあったりして、その人生の重みというのはなかなか普通のレベルでは測れないものだったわけです。ひと一人が生きていくというのは大変重みのあることだと思うのですが、中でも特に自己主張が強く、大きな仕事をした人々をまとめて一度に取り扱うわけですから、それを表現するということには、もの凄いプレッシャーがかかるわけです。考えてみると、今まで倒産の取材なんかやったことなかったですからね。しかもこの人たちは全員生きてる人たちなんです。書いてる途中で、まああまりよくない表現だと思いますが正直に言うと、「ああこの人たちが生きていなければもっと書きやすいのになぁ」と幾度思ったことか。
塩野七生さんは、ユリウス・カエサルや、アウグストゥスなど、巨人たちと丸一年間向き合って仕事されていますが、その心労たるや大変なんだということがよく理解できました。
こういうことがあるんです。私が書いている事実というのは、実は多くの人が知っていることであったりします。それを繋げていって、分析して、その本質は何なのかという、誰も見つけていなかったことを発見していくという作業は、実はフィクションを書くよりも創作性が必要なんです。だから僕は、ノンフィクションというのはフィクションよりもフィクション性があると思いますね。これは本当、大変なことでしたよ。
ゴールデンウィーク中に、インターネットで調べ物をしながら、徹夜で原稿用紙に向かっていて(あ、情けない話ですが執筆は全て原稿用紙に書きました)、一番つらかったのは、白々と夜が開けてきて、すっかり明るくなった明け方、「自分はいったい何のためにこんなことしてるんだろう」とつくづく思った時には、心の中にポッカリ穴が開いていたような気がしましたね。それを埋めて釣り合いを取るための何かが必要なんです。それをいったいどうやって埋めればいいのか。その穴は今でも埋まってませんが。
つまり向かい合う対象が大きければ大きいほど、「書き手の器」というのが問題になってくるんだと思います。私は果して、この作品を書くのに充分な器を持っていたのかどうか、そこが試されていたんですね。このネタに取り組もうと考えた時に、「これは今までの自分のアドバンテージを生かすことができる分野だ」と思って軽い気持ちで「やろう」と思ったんですが、しかし実際取り組んだ感想としては、いささか僕自身の器を超えていた部分があったのかもしれません。だから僕は、それに直面してものすごく苦しんだと思いますし、おそらく結果として、「この分野を取り上げて、優れたノンフィクションとなっていた」のであるならば、これを書くことによって僕自身が少し成長することができたのではないかなと思います。
まあとにかくそういう案配だったので、とてもじゃないけれどこの本に集中する以外には、他のことを一切かまう余裕というのは、2月の半ば以降の僕にはなかったわけなんです。やっとの思いで動けるようになったのは、出版が決まった6月半ば以降ですよ。
それで、その本の内容ですが……