余は如何にして「新日本国」を知りしか
インタビュアー 飯坂彰啓
運営者 今度は、「新日本国」の価値観について考えたいと思うんですよ。慶応大学の経済学部に入りましてね、4年間学校で遊んで、三井物産に入って……、という人々が持っている価値観というのは、「旧日本国」の価値観になっちゃうんですよ。しかもそういう連中はビジネスはできないだろうと思うんです。
飯坂 未だに「商社は口銭ビジネスであって、既得権益を守っていく」と。まだ結構そういう奴がいると思いますよ。
運営者 それは笑えるわ。若くして「旧日本国」に属しているという人もいたりするわけです。
ただ、そこから人間は精神的に脱皮を始めるわけですよ。いつまでが脱皮の上限年齢かというのは僕はわかりませんけれど。
僕は僕自身の経験からやっぱり思うんだけど、20代にB&Bをやっていて、僕が切り盛りしていたように思われるかもしれないけれどそんなことはなくて。B&Bの主人公というのはやっぱりそこに参加していた人たちで、僕は何をやっていたのかというと、その人たちからいろんなことを勉強していたわけですよ。
僕は忘れられないのは、木村さんもそうだし、神保さんもそうだし、手塚さんもそうだし、松田さんもそうだ久武さんもそうなんだけど、彼らは「新日本国」に属する人々だったんですね。まだその頃「新日本国」なんてなかったんですよ、今もまだないんだけど。
彼らは新しい日本国のコンセプトを輸入してたというのが正しいと思うんです。彼らは海外経験があって、何かわからないけれども向こうのシステムは、日本のシステムよりも合理的で、変化に対応しやすいと。そこから比べると日本人の意思決定のやり方とか、ビジネスのプロセスというのはあまりにも手順がおかしいと思っていた。91年ごろに僕らが問題にしていたのは、「この国の社会構造というのはおかしいのではないか」ということです。91年に「これは大不況が来る」と気がついていて、「構造を変えるにはどうしたらいいんでしょう」ということを議論していたわけですよ。
飯坂 それが『オバ大国』を書いたプロジェクトですね
運営者 そう。かなり早かったですよね。そして状況は今でもまったくと言っていいほど変わっていない。
つまり僕らの問題意識としては、「すでにこの構造は終わっている」と。まぁ「お前は既に死んでいる」というのは明らかだったんですよ。じゃあ、「来たるべき世の中はどういう感じでなければならないか」というのを模索していた。
ところがまだそのころは理念とか概念が輸入しきれていなくて、まだアメリカでも確立されていなかったものがいっぱいあったと思うんです。
飯坂 だってそんなの、まず漠然とした違和感があって、まだアメリカだって「日本を見ろ」といっていた頃ですからね。
運営者 リーン生産方式なんてのをMITが研究していて、「これはすごい」とか言っていた頃ですから。ところが「そうでない方向性というのはどういうものがあるのか」ということを、我々はいろんな角度からつついて見ていたというのがあの当時だったらと思うんですよ。
みんなやっぱりテクニックを持っていて、神保さんや三宅さんもコロンビア行っていたからアメリカのジャーナリズムはどういうものかとか知っていたし。市民社会というのは、別に左系の人々が言っているだけじゃなくて、例えば消費者主導ということになれば、考え方としてはワン・トゥ・ワン・マーケティングまでつながってくるんですよ。「企業からのプロダクト・アウトではなくて、マーケットからの発想になって商品を作って供給した企業が絶対に勝つ」というふうな、そういうところまでつながっていく流れだと僕は思うわけです。そこに我々は気がついていったわけです。