竹林の七賢になれないから摩擦が起きる
インタビュアー 飯坂彰啓
飯坂 「ヨーロッパや、アメリカに追いつけ追い越せ」と言って今までやってきたわけですが、ある程度生活面や技術面でキャッチアップした今になって見えてきたのは、彼我の間には隔絶した本質的な格差があるということなんでしょう。それがはっきりと今見えてきた感じがしますね。
運営者 絶望的ですよね。それはどういう面の格差と言えばいいでしょうか。
飯坂 思想でしょう。
運営者 僕も、そう思います。
それは結局、「人間何を目指して生きていくのか」ということにつながると思います。一流とは何かとか、価値とは何かということを知ることはどういうことかというと、おそらく精神的な豊かさを得るプロセスだと思うんです。そういう豊かさを手に入れると、モノを持つことは必要ではなくなるわけです。
飯坂 それはそうですね。精神的に満足して死んでいくのであれば、それはそれで幸せなんです。
運営者 「朝(あした)に道を聴かば、夕べに死すとも可なり」。そういうふうに生きていくことができます。
さりながら、竹林の七賢にはならない。狷介孤高な生き方はいやです。自分は社会とつながっていることが必要であるとすると、今度は社会的な存在として生きるために、自分の組織の不合理を分析したときに「もっとこうした方がいい」という結論が得られれば、人々に対してそれを働きかけ始めることになるわけです。そこが、間違いの第一歩なんです。
飯坂 そういったことをする人たちというのは、社会=自分の組織なわけで、「自分の組織を離れて社会というのは存在しない」というタイプなのではないでしょうか。
運営者 いや、逆の捉え方もできるんです。
そういう人たちは、自分の会社を超えて社会全体を見ているわけですから、社会全体に普遍的に通用しているはずのルールを、自分の組織にもちこもうとしているはずなんです。デファクト・スタンダードが何なのかを先に見つけて、それに対応できるようにするために、自分の組織の現行ルールを変えていこうと考えるはずですから。
彼らが考えているのは、組織を律していた従来のルールを超えた発想なのです。だから、個人としての自分は、自分が属している組織の中ではなく、「社会全体の中でどう生きるか」ということを尊重するわけです。そうすると、組織の中でのルールを尊重して動いている人間の働き方は不合理に見えてきます。環境が変わってしまえば、組織を守るという動機は、実は古いやり方を守るということに簡単に転化してしまって、結局組織を滅ぼすことに繋がってしまうという矛盾が、旧日本国人には見えないわけですから。したがってそこでフリクションが発生するという図式なんでしょう。
でね、新日本人の多くが置かれている状況は、そういったところなんです。各組織の中で異様に孤独な戦いを強いられているわけです。彼らは孤立無援です。僕もそうだった。同志がいる人はまだましなのですが、なかなかいないんだな、これが。だから、旧日本国陣営でありながらも、チャネルが自分に対して開かれている上司を懐柔しつつ、ひとりで闘い続けることになります。人間、孤独には耐えられないものだし、僕も精神的にはボロボロですよ、まったく。
「ふざける」なと思いますよ、怒ってもしようがないけれど(笑)。