「やりたい人間」vs.「なりたい人間」
インタビュアー 飯坂彰啓
飯坂 普通の人は、自分の地位の上昇や、自分にとってメリットがあるかどうかという近視眼的な基準でしか判断しませんよね、一般的に。
運営者 本来的には、心の豊かさを追求する人であれば、変革によって自分の地位が落ちることがあったとしても、全体に対してプラスの結果になるのであれば、その結果に満足することができるはずなんです。全体利益が第一なんです。そのために働いているわけですからね。そこがさもしい連中との違いで。
飯坂 議論をするときには、目的と、自分自身の立場は切り離して考えなければならないんですがね。それが当然だよ。
運営者 全くそのとおりです(笑)。ところがそれがないんだよなぁ。
飯坂 「俺の顔を潰した」という判断はできても、全体利益を考えた価値判断というのは存在しないわけです。
運営者 つまり「全体の中の自分」も認識することができないわけ。
飯坂 天皇制の弊害のひとつでしょう。旧日本国の中で軍人が威張ったのは、「自分はより天皇に近いところにいるのだから、自分の言うことは絶対なんだ」というロジックを使ったわけです。自分の正当性を主張するためには2つの方法があります。1つ目は、自分の言っていることが正しく、それが即ち国家のためになるということ。もう一つは、自分が天皇にどれだけ近いか。
運営者 統帥権ですね。
それで思い出すのは、よく佐々淳行先生がおっしゃってましたが、人間には2種類の人間がいて、「なりたい人間」と「やりたい人間」がいるというんです。
「なりたい人間」は、自分が地位についているということが必要なんです。組織に自分のアイデンティティーを仮託しているから、組織の中での地位が上がるということが、彼にとっては自分の存在証明になる。「やりたい人間」の方は何なのかというと、組織の中でどのような地位を得るかということは全く問題ではなくて、「自分がいったい社会に対して、あるいは組織に対してどのような貢献をしたか」に価値を置くわけです。
「自分はやりたい人間である」と堂々と公言するということは、官僚社会においては困ったちゃんなのかもしれませんが、そういうところが佐々先生の強みです。
「一体どちらがいいんだ」と選択を迫られたときに、「じゃあ私は"なりたい人間"のほうがいいんです」という奴がいたら、私は軽蔑しますけれどね。いたんですよ、これが。まったくふざけきったバカです。
飯坂 でも、まず"ならなきゃ"ならないでしょう。
運営者 ま、僕はなることは捨てたんです。会社もヒラのままで辞めたし。