だから私は嫌われる
インタビュアー 飯坂彰啓
運営者 また私の話で恐縮ですが、会社にいたときには、「ここまで理解されないのか」と思ってましたね。僕は会社の外ではある程度、人望がなかったわけではないし、そこそこ友達も多かったし、ところがそれが会社の中ではゼロですよ、ゼロ。何もなし。それどころか、どちらかというとマイナスのイメージで、「ダーティー」ですらあったかもしれない。「何なのよこれは」と思います。どうにもならないっすよ。
なぜボクにそんな嫌なイメージがついているかというと、まず仕事ができる。編集総ページ数が220ページなのに、1人で50ページ以上つくっているわけですから。編集部員は13人居るんですよ。なんか計算が合わないですよね。一般的に編集者でページ数が取れるということは、ネタや筆者資源を含めて、それだけ編集能力があるということなんです。あくまで"相対的に"ですけどね(笑)。
2番目に、言いたいことを言ってしまう。上司や、他の部の部長にも。「これってやっちゃいけないんじゃないですか」とね。
別に僕だって喧嘩をするために会社に行っているわけではないですから、それを侵されたら、自分の仕事が成り立たないというレベルのものでなければ文句は言わないわけですよ。僕は雪印になりたくないもん。だったら、危機を回避するために闘わなきゃあ男じゃない……というか、文明人じゃないですよ。
例えばね、ルールとして、広告と記事の区別はきちんとつけなければならないわけです。最近記事広告で、編集記事なのか広告なのかよく分からないケースが経済雑誌にも散見されますが、これでは読者に誤解を与えてしまいます。ところがそこにちゃんと線を引いて区別をつけようとしないんですよ。当然ながら広告クライアントとしてはそのような記事スタイルの方が訴求効果が高いわけですから。
でもそれはまずいので、ちゃんと記事広告だと分かるような印を入てもらうのは、自分が編集の仕事する上では絶対に欠かせないことなんです。読者や、自分が責任を負っている筆者の先生や、客観記事ということを前提にして嫌な取材を受けてくれた取材先、すべての利害関係者の利益のために。
ある企業が10ページもの記事広告スペースを取っていたわけですが、記事と広告を截然するというのはページの多寡とは関係なく、絶対に貫かなければならない原則なんです。企業がそれだけの広告費を投入するということは、彼らは「それだけの広告費の投入に見合った利益が得られる」という計算に基づいているということを考えなければなりません。したがって、媒体は決して企業に利用されてしまってはならないわけです。そこを踏み外すと、歯止めがかからなくなるギリギリのところを、すべての媒体は歩いているのです。
怖い先生方と付き合っているのはわれわれ編集者なわけですよ。そういった大先生方に、「何で自分の記事が広告と同じレベルで載っているんだ」と聞かれたときに、われわれとしては返事のしようがないわけです。そうすると、出版社の命である筆者資源が逃げていってしまう。筆者が逃げて、どうやって記事を作るのか。それじゃ雑誌が作れない。だから抗議文も書くし、全体会議でも社長に面と向かって言うわけです。でも、目先の利益を取りにいく人たちは、そこまで考えが回らない、というか雑誌編集についての理解がないということなんでしょうね。編集畑の人が社長になっていれば多少は事情が違うのでしょうが。
でもね、僕が主張していたのは、まさに自分たちの仕事を守ること、読者に喜ばれる記事をつくるため、雑誌を守るためにやっているのに、周りの人間はそうは受け取らなかったりします。「またあのデブがうるさいことを言っている」と。
まあ、そんな情けないことが、山ほどありましたよ。私だって、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んでたんです。
飯坂 広告主体の雑誌になるならば、「週刊住宅情報」になればいいわけで。
運営者 そうそう、メジャーな雑誌として踏みとどまるか、あるいは広告雑誌、二流雑誌に墜ちるかというぎりぎりのところを歩いているわけです。なのに私が何をしてるのかということが理解できない人がいるわけですね。
飯坂 「読者からすると、一流雑誌も二流雑誌も区別がつかないんだから。俺は給料がもらえればそれでいいんだ」と。
運営者 そんな志の低い人間に発言権があるということ自体がおかしい。
飯坂 リクルートはリクルートで割り切ってやっているんだからそれはそれでいいんですよね。
運営者 リクルートは経営能力のあるすごい会社ですよ。ビジネスとしてはちゃんとした戦略でやっている見事な会社だと思います。うらやましい~。