田舎者の本質とはどういうものか
インタビュアー 飯坂彰啓
飯坂 まさに田舎者じゃないですか。田舎者だから成功したんですよ。
運営者 それは田舎者の本質とはどういうものであるのかということですよ。
大江健三郎に「同時代ゲーム」という小説があって、大江健三郎というのは僕の田舎の出身なんですよ。僕は大嫌いなんですけどね。大洲という盆地がありましてね、NHKの連続ドラマ小説の「おはなはん」の舞台になったところなんですけど、その盆地からさらに山を奥深く入ったところにある大瀬という小さな村の出身なんです。私ですら行ったことありません。
その田舎たるや、大変な田舎なんです。彼はその小説の中で克明に描いていますよ。なんて言ったらいいのかなあ。外部に対して異様に閉鎖的で、非常に狭量で理不尽なまでに自分たちのルールを墨守し、そのルールは理屈を超えていて合理性のかけらもそこにはないんです。頑固で意固地でどうしようもない奴等なんですよ。野卑で粗野で文化のかけらもない連中なんです。
飯坂 それが日本の典型的な田舎じゃないですか。まあ文化はあるかもしれないけど。
運営者 文化じゃない、習俗ですよ。「砂の女」に出てくるような連中ですね。嘘をつくのが平気で。結を作って働くような働き方しか知らない人たちです。なんか凄い悪口言ってるみたいだけど。
飯坂 それを言わなきゃいけないんですよ。それこそが、中学生の部活動から、宗教法人の組織に至るまで、あらゆる日本の集団にある特質なんだよ。
運営者 その通り。
飯坂 で、それとは別の、反対の生き方、もっと都会的というか。だって洗練というのは、常に新しいものを取り入れて、比較検討していいものに変えていくから洗練されるわけであって。頑固で閉鎖的じゃ洗練のされようがないですよ。頑迷固陋に古いものを守るというのは、洗練とは対極のものですよ。
運営者 田舎者は、旧来の価値しか認めませんよね。ところが洗練というのは、新しい価値を作るってことですからね。
飯坂 それは、新しいものの効用よりも、変えることのリスクを見てしまうからなんですよ。それはそれで、「今までうまくやってきたんだから天変地異が起こらない限り、このままでやっていこう」という態度です。それがコンセンサスになっているんだったら、仕方がないよね。
運営者 説得しようとしたって無理ですよ。とにかく変えないことが自己目的化してる人々ですからね。
飯坂 変えるという概念がないからね。自分が理解できないものは、否定するしかないですよ。
運営者 だからそれと反対の生き方というのが、新日本人の生き方なんですよ。