集団指導体制下の「権利義務関係の持ち合い」
インタビュアー 飯坂彰啓
飯坂 他者に依存する性格を人間が持っているのが問題ではあるのですが、しかしそういう性格を持っていたからこそ人間になれたという側面もあると思うんです。
運営者 その通りですね。
飯坂 ただ現在の問題は、その依存のシステムがどんどん高度になってしまって、自分たちが作り出した神とか空洞に対して依存するという傾向を持ってしまったところなんです。そしてまた、依存をするものと、依存されるものが、お互いの義務関係を明確にしなくなっているんですよ。
運営者 責任と義務を確定するためには、仕事の目的と、各人の仕事量と報酬を決定しなければなりませんからね。
何となく一緒に仕事を始めて、得なのか損なのかわからないままに仕事を続けてしまうというのが日本人の仕事観ですよね。
飯坂 本来は、厳然とした指導者が1人いるはずなのに、それがいつの間にか集団指導体制になって、だれが実質的な意思決定者なのか分からないようにしてしまう。したがってそこにぶら下がっている全員が、意思決定に参加しつつ、その決定された事項に対して責任を感じる必要がないわけです。
そういう権利義務関係の持ち合いは、株式の持ち合いと合い通ずるところがありますね。
運営者 ぴったり重なってると思いますね。だって証券としての株式は権利義務関係の束ですから。
黒沢明の「影武者」をご存じだと思いますが、武田信玄が死んだ後に、卑しい生まれの者を信玄の影武者にして、藩の重要事項の決定は、8人くらいの重臣たちがすべて決定してしまうんです。武田勝頼というリーダーを差し置いて。評定の席でも、影武者は何も言わなくてもいいんです。ただ家臣たちが決めたことに「うん、一同、大儀であった」と言えばいいだけ。戦国大名なのに、そういうシステムなんですよ。
飯坂 そんなはずじゃないじゃない。
運営者 正しい、でもそれが事実かどうかということは問題ではないんです。もちろん僕だって事実じゃないと思いますよ。戦国大名のようなワンマン体制における評議のシステムが、そんなやり方のはずがないんだから。
問題なのはですね、そのような設定を映画のシークエンスとして見せて、「現代の日本人は納得するであろう」と考えて脚本を書き映画化して、実際にそれを見て観客たちも納得していたという事実なんです。1980年の段階では、すでにそのような空洞化した意思決定システムを当然と思う認識が、日本を支配していたわけですね。おそらく高度成長期の間ずっとそういう刷り込みが行われていたに違いありません。その組織観がカンヌ国際映画祭でグランプリを取ってしまっている。恐ろしいことですよ、これは。
いや、驚きましたよ。
僕があの映画を見たのは高校1年のときです。まだ「神」を求めている若造でしたから、映画館のスクリーンからそのように説得力があるプレゼンテーションをされれば、当然受け容れてしまいますよ。で、武家集団と同じような機能を持つ企業に入って、空洞化した意思決定を当然と考え、「なにが悪い」という感化を受けるわけです。映画にはそういう力があるんですよ。アメリカ人はそれをよく知って、利用してますよね。私の場合は、そこから抜け出るのに20年かかったんですよ。恐るべきことですよ(笑)。
飯坂 それはおもしろい話ですね。抜け出せてよかったですね。
運営者 映画のシナリオなんていい加減なもんですよ。客が見て納得できればそれでいいんですから。しかしそれは、観客の持つ価値観のある部分を見事に反映しているものなんです。アメリカ映画は国威発揚的であるということをわれわれは非常に意識しますが、それはアメリカ人の意識自体の反映でもあるんです。ニワトリと卵ですよ。