まったく新しいオリジナルの尺度の提唱
インタビュアー 飯坂彰啓
飯坂 グローバル・スタンダードとはどういう関係だと考えればいいんでしょうか。
運営者 いわゆるグローバル・スタンダードとは次元の違うところにある考え方のセットでありたいと思っています。
まったく新しいオリジナルの尺度を打ち立てるために2年間もかかったわけですから。そうでないのなら、どこかから出来合いの「主義」を取ってくるか、それに相対する論拠をつくればいいだけですよ。
私は『新日本人』の中で、「アメリカ」という言葉は意識的に避けています。批判者がどちらの方向に話をもっていきたいのかあらかじめわかっていますからね。
私は「日本人の意識の変容の方向性」を考えているわけであって、グローバリズムとか、イデオロギーとか、男女同権とか、世代論とか、そういった主義主張とは全く次元の異なる話をしていると認識しています。どうしてもそのような視点からとらえたい人はご自由にしていただいても結構ですが、わたしは関知しません。それこそ、山本七平が『空気の研究』の中で指摘している「言葉にとらわれている」人たちなわけですから。
飯坂 それで済むのかなぁ。
運営者 ですからね、ドグマとかドクサとかにとらわれている人たちというのは、ある意味そういう「既存の価値に依存」してしまっているわけです。その理念が自分のアイデンティティーになってしまっている旧日本人なんです。
昔のセクトの内ゲバとか、「ゴーマニズム宣言」なんかについての議論でよく本筋と関係のないところで論敵の人格攻撃をしている人がいるじゃないですか。本来は道具として理念と理念を闘わせるべきものなのに、議論している本人たちが理念にとらわれてしまっているからそういう本末転倒になるわけです。
そうなるともう訳がわからなくなってしまって、自分の人格を攻撃されることが、すなわち自分の信奉する理念を攻撃されることになるという被害妄想になって(ホントは全然そんなことないんですけどね)、そうであるならば相手の人格を攻撃すれば相手が主張する理念を攻撃することになる、というものすごい錯誤がそこにはあると思うんですね。
主義主張と、自分自身を常に相対化しておかなければ、非常にバカなことになりがちですが、旧日本人同士の議論というのはそうしたワナに陥りがちです。要するに、「岡本はデヴだから、新日本人論には意味がない」と言われても、放っておくしかないということですよ。
改革派、守旧派と言ったレッテル張りにこだわるというのも、そうした意味を持っていますね。