お神輿経営はこんなに楽しい(1)
インタビュアー 飯坂彰啓
飯坂 それどころか、「自分以外の人間は天皇に盲従しているのだが、自分だけは覚醒していて天皇をコントロールできる。だから、民を率いることができるのだ」と思ってるんですよ。
運営者 ところが官僚になるようなエリートたちは、みんながみんなそう思っているわけです。
そうすると何が起こるかと言うと、これは天皇を担いだ「お神輿経営」になるわけです。神輿をかついでいる人間は、全員「自分が神輿の向かう方向性を決めている」と思っている。「自分が神輿をかついでいるんだ」と思い込んでいるけれど、実際は一緒に担いでいる人間と同じ方向にどんどん流されて行っているだけなわけです。
飯坂 お神輿というのは、巡行の道順は決まっていますよね。だだっぴろい場所で担いだら、どこへ向かっていくか判らない。だからルートをあらかじめ決めているわけです。
運営者 そうなんですけれど、では神輿は最終目標地点に向かって、最速で移動できるかというと、そうではないわけです。効率性はそこでは意識されていないわけですね。
歌舞伎には舞台監督がいないんです。なんとなく役者たちの総意で舞台が出来上がっていく、それと似たような感じかな。
飯坂 結局、そのルートに沿って進むしかないんだけれど、各人があちらこちらにぶつかって進むことによって、何となく「自分は仕事をやったんだ」という実感が欲しいから、無駄なことをいろいろしているということなんでしょう。
運営者 そういうムダを許している理由として面白いのが、神輿が運行している途中で木にぶつかったり、植木を壊したりしても罪には問われない。「神さまがやったことだから」というなんだかわからないエクスキューズがあります。よく言うよ、やったのはあんたたちじゃないか、と思うんですけど、その理屈は通じない。
やくざな不良債権がたまろうが、会社が破産して支払いが停止しようが、「みんなに責任がある」ということは、「だれも責任をとる必要がない」ということなんですね。むしろ、軒にぶつかることを良しとしているきらいすらあるのではないでしょうか。(笑)
お神輿の向かう方向はあいまいに決められていて、担ぎ手にはボラティリティを楽しむ権利が与えられているのではないんでしょうかね。重い神輿をかついで進むしかないんだけれども、運行のスピードを多少遅くしたり、効率性を無視するという形で担ぎ手に、ある程度の自由度を与えているということなのではないのか。報酬を多くして報いるのでなく、「多少は勝手なことを許してやるから頑張って担げよ」ということですよ。
それがこの閉鎖社会の中での、虐げられた人々のゆがんだ楽しみなんですよ。