天皇に対する国民の関係は「孝」であった
インタビュアー 飯坂彰啓
運営者 ところが本居宣長はこれを再発見してしまいました。
「ただ人もたちまち王になり、王もたちまちただ人になり」「国を取むと謀りて、えとらざる者をば、賊といひて賤しめにくみ、取得たる者をば、聖人といひて尊み仰ぐ」(直毘霊)
兵法の山鹿流も、朱子学には反対の立場だったみたいですね。吉田松陰は山鹿流の流れを受けているそうです。それから古義学の学者たちも、朱子学以前のテキストに立ち戻ってその本来の意味を理解しようとする考え方ですから、易姓革命はタブーではなかったでしょう。
それで、そうしたもろもろの流れを水戸学は受けていると思うのですが、前期水戸学においては易姓革命はOKだった。ところが後期水戸学においては、尊皇思想が出てきて、易姓革命なんてとんでもないということになってしまいます。天皇に反抗することはまかりならんということになっちゃったんですね。
飯坂 それは、幕府に対抗するために天皇をかつぎ出そうとしたからそういう考え方になったのでしょう。幕府は人為的に打ち立てられたものであるが、皇統は天与のものであるから反抗してはいけないということですな。
運営者 それをさらに一歩進めて、「天皇に対するわれわれの忠誠は、子供が親に対して尽くす忠誠と同じである」という価値づけがなされたわけです。
飯坂 それは発明ですね。
運営者 全くですよ。すごい発明ですよ。だって「絶対に裏切りを許さない」という社会全体を覆う関係が、これでできあがるわけですから。もっとも中国では、漢代にやっぱりそういうことをやっているみたいですが。
これは明治新政府を作るときのイデオロギーであったわけですが、これが実は、太平洋戦争に至るまでの旧日本型の挙国一致体制を作るときにものすごく大きな駆動力になっているわけなんです。そこを私は強調したい。
それまでの日本は300の小さな国に分かれていましたから、それを天皇を中心とした1つの国にまとめるためには、「忠孝一致」に正統性を求めるのは賢いやり方をだったんでしょうね。
飯坂 朱子学を援用して完成された幕府の支配のロジックを打ち破るためには、それを超えた視点からのロジックが必要であったということですね。
幕府に対する関係は「忠義」であったわけですが、天皇に対する国民の関係は「孝」であったということでしょう。