天皇機関説事件で天皇絶対制は完成された
インタビュアー 飯坂彰啓
運営者 景気のいい時期はよかったんですよ、大正デモクラシーの時代までは。だけど昭和になって、金融恐慌、世界恐慌と生活が困窮すると、やっぱり日本人の「共同体依存性」がむくむくと頭を持ち上げてきます。
そして天皇を持ち上げて自分たちの無理無体を通そうとし、民主主義的なコントロールを掣肘しようとする動きが激しくなります。最初は軍と官僚だけが天皇の威を借りていたのに、そこに世の中のありとあらゆる不満分子が流入してくる。依存システムの最も好ましくない側面は、みんなが一番困ったときに噴出してくるのですから困ったものです。
血祭りに上げられたのが美濃部達吉の天皇機関説ですよね。これは思想的にも、現実政治的にも日本の右傾化のエポックになったのではないかと思います。 彼は欽定憲法である大日本帝国憲法を盾にして「統治権は常に国家に属する権利であって国家のみが統治権の主体であり、、天皇は国の機関として国家に属する一切の権利を総覧し給う所の国の直接且つ最高の機関である。」と主張したわけです。
これは主流の学説だったのですが、昭和10年になって美濃部博士が貴族院で、司法省の事件取り調べで人権蹂躙行為があったことを取り上げると、それに対して右翼は、異常に激しく反応を示したわけです。その2年前の滝川事件と同様、「政府は法律にもとづく統治をするべきだ」と唱える自由主義的法学者の声はここでかき消されてしまうんです。旧日本人は、法律なんか要らないわけですから。無法地帯ですよ。
議員も同様に騒いだ。それに押されて岡田内閣は同年8月に国体明徴声明を発表しました。
「恭しく惟みるに、わが国体は、天孫降臨の際下し賜える御神勅により明示せらるところにして、万世一系の天皇国を統治したまい、宝祚の栄え天地とともに窮なし。すなわち大日本帝国統治の大権は儼として天皇に存すること明かなり。
(略)、近時憲法学説をめぐり国体の本義に関連して兎角の論議を見るに至れるはまことに遺憾に堪えず。政府はいよいよ国体の明徴に力を効しその清華を発揚せんことを期す」
ここでは天皇が日本国のすべてを統べるということが明確にされています。この後、勢いづいた右翼ばかりでなく、政府自体も右傾化を進めていくわけです。なんせ民選議員を中心にする内閣は、天皇をバックにする官僚と軍の前に全面降伏してしまったんですから。それまでは頑張って闘ってたんですけどねー。
翌11年2月には天皇の名をかたって、近衛師団までが参加したクーデター未遂事件が起こっている。農村の疲弊を救いたいという純粋な動機が、天皇の名を借りた民主主義システムの破壊という形で暴発したわけですが、蹶起趣意書を見ますとね、
「内外眞に重大危急、今にして國体破壞の不義不臣を誅戮して稜威を遮り御維新を沮止し來れる奸賊を芟除するに非ずんば皇謨を一空せん」
つまり「われわれは天皇のために不義不臣を誅戮するんだ」と言っているわけですが、天皇は彼らにそんなことは一言も頼んでいないわけです。自分の行為の正統性を物言わぬ天皇に求めるという、典型的な絶対権威依存システム利用のパターンがここにあります。青年将校だけでなく、みんながこのパターンを利用しているのだから、彼らにしてみれば「何が悪いんだ。お前らも一緒だろう」という思いがあったかもしれませんね。