NHKスペシャル|80年ぶりの大屋根ふき~白川郷"結"復活の記録~で放送された共同作業の様子をわざわざポスターにしたものは売り切れ中・・・
「結」は、村人同士が労働の貸し借りを行うもので、昔は田植えや稲刈りにもこの「結」制度が使われていた。「お互い様」という考え方で白川の村人の心の絆を形作ってきた。明日あさってに貸し借りを完了させるのではなく、何十年という長い年月の間に繰り広げられる助け合いの気持ち。
その最大のものが、合掌造りの屋根葺き。(NHK番組サイトより)
白川郷、五箇山の相倉集落・菅沼地区を回って、合掌造りをほぼ把握しました。
白川郷では泊まってみたんですけど、あれは泊まるもんじゃない、外から見るもんですね。夏でも屋根を虫から守るために囲炉裏を焚いて、室内を燻しています。煙いです。
外から見ると、なんとも風情があるものです。意図せずにスーパーデフォルメされた日本の農村風景だからです。
合掌造りが有名になったきっかけは、赤字に悩んだ国鉄が70年からやった「ディスカバー・ジャパン'」のポスターで、その前はカメラマンがぽつぽつ訪れる程度だったらしい。95年には世界遺産に登録。現地では「世界遺産? なにそれおいしいの?」くらいの認識だったとか。
いまや大変な観光地で、三脚つきカメラを持った熟年夫婦と、バックパッカーの外人が、村内をぞろぞろと歩いています。
白川村の人口は1400人。合掌造りは100軒残っており(以前は周辺に1000軒もあった)、年に2、3軒のペースで葺き替えています。葺き替えには数千万円かかるので、この費用捻出が大変。屋根は茅がないのでススキです。
この地域は非常に冬場は環境が厳しく、土地が痩せていて、アワとかヒエしかできず、ギリギリの暮らしをしていた。五箇山には種子島に鉄砲が伝わって十数年後には煙硝作りが伝わり、囲炉裏の下で3年かけて煙硝をつくっていました。それを山を越えて金沢に運んでいた。何本か煙硝街道があったそうです。援蒋ルートじゃないです。
居住スペースは1階で、30-40人が住んでいた。大きな家だと中2階に男女に分かれて使用人が住んでいた。1階の奥に必ず立派な仏壇があり(この地域はたいがい天台宗だったのが、蓮如の頃にごっそり浄土真宗になっています)、その隣が主人の間でした。その上の屋根裏はスカスカで、蚕棚で養蚕をやっていた。
つまり屋根の角度を作るためにムダに大きな空間があるということですが、その屋根の角度は正三角形の60度ばかりでなく、さまざまなものがあります。また側面はすべて障子貼りで雨戸はなし。冬は厳しいです。雨の侵入を防ぐために、必ず上階のほうが外に出るように角度がつけてあります。
合掌造りの寺や茶室もある。
最大の合掌造りは、白川郷から五箇山に行く途中の街道沿いにある岩瀬家で、重文です。当主に話を聞いたが、耳が遠くてたいしたことは聞けなかった。周辺の農家から煙硝を集めて売る株を持っており、加賀藩からときどき来る代官の宿舎として奥座敷が書院造りになっているという特徴がある。柱一本4000万円だそうです。屋根が大きいので、明かり取りの窓がついています。年に10俵囲炉裏で薪を焚くと言ってました。
あと、こきりこ節は五箇山のものだったんですねえ。なんとなく木曽節と混同していた。