報道で、なんで福島産食品について「安全だ」と言えるのか不思議なんですよ。「線量が低い」とか「線量が高い」とは言えますが、「100ベクレル以下だから安全です」というのはぜんぜん違ってる。
それは「国が勝手に線引きした基準値以下である」という事実しか示してなくて、個々人の放射線耐性によっては基準値以下でも影響が出る可能性は否定できないし、そもそもどの程度の被曝で健康被害が出るのか確立された知見がないのに「安全だ」と断言してしまうのは、マスコミにも後々責任が出てくるような話じゃないのかな?
「知らなかった」とか、「国が決めた基準値以下だから安全だと信じていた」ではすまなかろう。
「風評被害がなぜなくならないのか」という論調も、マスコミ側が積極的に「福島産食品は安全である」ことを肯定して(そうした価値判断を行って)、それを前提に「これは風評被害だ」と断定しているわけですから、同様にマスコミの責任が問われる表現ですよね。
そういう報道を繰り返すことで、受け手の側に「そうか、やっぱり安全なんだ」という雰囲気が醸成されるわけで、それに乗っかって意識せずに高線量の食品を摂取し続けた結果、大勢の人に健康被害が出た場合、マスコミは責任を取るつもりがあってやってるのかな?
自分たちの報道の結果を予見して、何をどう報道すべきか決めるのは、プロ意識の範囲の話だと思いますけどね。まあ「プロじゃなくて、なんちゃって報道人なんですけど。周囲が安全だと言ってるので、なんとなく空気に流されてやっちゃいましたー」と開き直られたらそれまでなんですけど。
まあ、なんでこんなことになっているのかと言うと、
マスコミの特質は、影響力が大きい、ステイクホルダーが多いということです。だから報道内容には細心の注意が払われなければならないのですが、やっている本人たちにはそういう認識はぜんぜん希薄なんですよ。
それは、ひとつには、受け手との距離がかなーり遠いという問題があります。
もう一つの要因は、最初にパニックを恐れるあまり安全路線を引いてしまったので、それがアンカリングになってそこから脱出できないんでしょう。同調しておけば、最悪の結果になったとしても、被害は最小限ですむという戦略です。
保身を第一に考えれば、本人たちにしてみればベストの選択をしているんでしょうなあ。
堀潤みたいにヤバイ奴が出てきたら、「さっさとお払い箱にして、この安定状態を保ちたい」という内部的な圧力が機能しています。
あと、チェルノブイリ後の「プルト君洗脳世代」が現場に出てますから、彼らは「放射能なんかへーき」と思ってますから。チェルノブイリを知っているデスク以上の世代は思考停止。
だけど、そろそろ目を覚まさないとしゃれにならないんじゃないかと思う今日この頃・・
どのくらい真剣に自分の仕事を考えるかというプロ意識の問題だと思うんですけどねー
メディアの核心は「編集権」で、何をどう報道すべきかが命です。そこのところの問題なんだけど・・・
取材は「どういう視点を持つか」の問題だと思うんです。そこから「仮説」ができて、それを実証して「正しいと思われる像を求める」というプロセスを辿ります。
ですんで、そもそも「福島の野菜や魚は安全」という認識からスタートしたら全滅です。
だいたい報道はホイッスルブロワーじゃないといけないんだから、どんなに危険厨でもおかしくない。なのに頭から「安全」とか「風評被害」とか、職務放棄としか思えません。
さて、どのマスコミが汚染食品の流通について、最初に「これやばくね?」って言い始めるかな?