週末の報捨てで、古賀茂明vs.古舘伊知郎のバトルがあったそうじゃないですか。
残念、わたしはその頃、新東名で長距離トラックと追いかけっこをしていました。
で、みんないろんなことを言ってますが、わたしの見解としては、このような無様なことになった原因は、古賀が残念な人であったということに加えて、「コメンテーター」なる存在が不可能であるということが露呈しただけのことだと思いますね。
だって、この日の話の「中東がどうこう」は古賀の専門じゃないでしょ。報道番組なんだったら、ストレートニュースに対して、各専門家が、専門家の立場から専門的な解説を行うというのがコメンテーターの立場でしょう。
ところが、この番組のコメンテーターは、テレ朝の支配的株主である親会社の朝日新聞社から、何が専門なのかよく分からない論説委員がやってきて、キャスターコメントにかぶせて自社の持って行きたい方向に世論誘導する+視聴者の感情におもねる感覚論を展開して場を持たせるというご都合主義的な機能があり、週末だけはこれが朝日新聞以外の識者に解放されるというものでしょう。
これ自体、そもそも成り立たない曖昧性をもった存在だったんです。だってなんの資格があって、この人たちが自分の知らないことにどうこう言ってるんですか? ネットで書いてるのと変わらないでしょう。でもそれ、公共の電波でやっちゃいかんですよ。報道は、事実をもって語らせる努力をしないと。コメンテーターなんぞに、なんの正当性もないですよ。
しかも、テレ朝の支配的株主である親会社の朝日新聞社からお目付的に来ている論説委員は、専門もクソもないですから、政治的発言やり放題ですよ。権力をチェックするにせよ、証拠を持ってこないと単なる言いがかりにしかならないんだけど、平気で言いがかりつけてるんだもんなあ。呆れたもんです。
そうすると、放送の素人である古賀が、「自分が報捨てのレギュラーコメンテーターになったからには、自分の政治的見解を主張してもよい立場に成り上がったのだ」と勘違いするのは、不思議でもなんでもないですよ。むしろ「自分はそういう特権を持ったのだ。だって朝日の解説委員だってやってるもん」と。
とんでもない勘違いですよ、朝日も古賀も。
生活情報のワイドショーだったら、そういうことをやるのはまだしょうがないかと思いますよ。でも報道がやることじゃあないでしょう。
朝の情報番組は、それでも21世紀初めまでは、前の日に起きた事件事故についての各専門家をいちいち手配して呼んでたんですよ。それを最初にあきらめてコメンテーターを固定化したのは、わたしの記憶では、みのもんたを使った「朝ズバ」だったと思います。これは作り手にしてみれば楽ですよ。
その後、各局コメンテーターを固定化したので、専門的解説がかなり減って、視聴者の感情的におもねるアホコメントが標準化してしまいました。長嶋一茂のバカコメントには毎回ビックリです。
こんなに水準が下がって、ネットにも及ばないレベルでよいのであれば、古賀が「アイム・ノット・アベ」と全国放送でやらかしてもあんまり違和感はないですね。
この件は、「コメンテーター」という存在はいったい何なのかという話だと受け取らないと、もっとバカげたことが起きると思いますよ。そうやってテレビを観る人はどんどん減っていくのだと思います。