■絶対平等主義 / 機会平等・所得格差肯定
おやじ ずいぶん勘違いをしているな。自分の力を過信している若者にありがちな誤った考え方だ。
日本丸というのは、誇るべき社会システムなんだぞ。絶対に沈まない戦艦大和みたいな船に乗って、世界の市場に乗り出していくんだ。しかも乗組員全員に平等が保証されているという素晴らしいシステム、それをわれわれは戦後50年かけて手にすることができたんだ。
ところが最近、その恩恵を受けながら、わがまま勝手を言って社会秩序を乱そうとするけしからん若者どもが多くなってきたので、われわれは心を痛めているんだよ。
若造 よく言うよ。それは社会システムじゃなくて、単なる「会社システム」だよ。そのシステムの命脈がもうすでに尽きて、世の中に害をなすようになってしまったから、われわれは騒いでるんじゃないか。それなのに、終わってしまったシステムの残がいにすがりついて離れようとしない旧日本人が多すぎて、日本丸の進路をなかなか変えられないから、みんなが迷惑をしてるということに、まだ気がつかないのかな。
それと、「平等、平等」と言うけれど、日本企業の中にも階級秩序があるよね。
おやじ 当然。先輩後輩の年次による区別は絶対的なもんだ。センパイを飛び越して出世するということはあり得ない。そんなことがあっては、示しがつかない。そういう序列の中で、上司は部下に命令し、部下は上司の命令をちゃんときいていればなんとかなるということだ。
若造 だけど業績が悪かったからといって、上司が責任を取るというのはあまり聞いたことがない話だね、特に社長が辞めるというのは。よほどの不祥事を起こさない限り、どんなに赤字を出そうと社長は居座っているよね。
おやじ 日本企業というのは、無慈悲な世界ではないからな。特に社長は、われわれがいつも仰ぎ見ているトップだから、彼に責任をとらせるわけにはいかないもんだ。彼がその座を追われるということは、われわれ全員の死を意味するくらいに重いものだということだよ。
若造 慈悲があるからではなくて、旧日本型企業では全員が責任をとらなくてもよい仕組みができ上がっているからじゃないのかなぁ。
つまり、まずトップである社長や会長は、その座に座ってしまえば基本的に責任を問われることはない。社長の経営責任を問うことは、なぜか社員の士気に影響及ぼすと考えられているからだろうね。本当は、経営能力がない社長は社員にものすごい迷惑をかけているはずなのに、なぜか社員は社長と心理的な一体感を持っている。
そして社員は、何かを提案するにしても稟議という組織的決定をすることになっていて、まちがいが起こっても判子を押した全員の責任に分散するから、基本的にだれも責任を問われないということになる。少し前までは、稟議書につかれる判子が大企業では20個も30個もあったので、旧日本型企業には、「責任」という文字自体が存在しなかったわけです。
おやじ 働く側のわれわれにとってはいいことじゃないか。
若造 株主にとっては、大きな迷惑だったと思うね。