■絶対平等主義 / 機会平等・所得格差肯定2
おやじ 大丈夫だよ、うちの会社もほかの会社の株主だし、うちの会社の大株主は銀行や生命保険会社だったから。
若造 そのようにして、一企業だけでなく、企業社会全体に責任を分散させるネットワークが張り巡らされていた。その結果として、従業員はぬくぬくとしているが、大株主であった銀行や生命保険会社は、自己資本が実質的にマイナスになる致命的なダメージを受けているでしょう。
そして、話を「平等」に戻すと、旧日本型組織の中での平等というのは、このような何をしても責任を問われない環境の中での平等だから、信賞必罰で評価が行われるわけではない。つまり「結果平等」になってしまう。どんなに頑張っても、前年入社組より出世はできないし、給料が上がるわけではない。一番仕事ができない同期の人間と、自分の給料がたいして変わらないんだったら、「もっと自分の能力を磨いて高度な仕事ができるようになろう」なんて考える必要がないわけだから。
旧日本型企業の人事の発想というのは、「仕事の非効率を正すよりも、組織の秩序を守る方が大切だ」になる。そうすると、そこで働いている人たちは自然に、「業績を左右するのは市場環境以外にはないんだから、どうせ自分が何をしてもたいしたことにはならないだろう」と投げやりに考えて、目的もなく会社生活を送ってしまうよね。
そうした旧日本型企業内の決め事をみんなよく知った上で足の引っ張り合いをするから、旧日本人の行動はかなりいびつなものになってると思うよ。ちょっと周りの人と違うことを言ったり、違うものを着ただけで、仲間はずれにされてしまう。そういういじめの構図は、「仲間であることがまず大切だ」という価値基準があって、そこから外れたものには「排除しよう、平等な社会の中で一段の格下というらく印をしてしまおう」とする心理が働いているんじゃないかな。それというのも、「仲間と違うものは一切認めない」という悪平等感からきているものだよね。
おやじ しかし周りの雰囲気を壊さないとか、人と違うことを言って相手を困惑させないとか、とにかく迷惑をかけないというのが、人間としての基本だろう。
若造 三島由紀夫が書いてたっけな、(旧日本人にとっての)幸せとは、「衆に抜きん出る」ことではなくて、「他人と同じになる」こと。外見も、生活水準も、頭の中身も。だから「新しいことや他人と違うこと」なんか、考える必要があるとは思わない。そうして思考力が衰退していく。
「変わったものや新しいものを認めない」というのは、旧日本人にはそれが実際に有益なものであるかどうかが判断できないからじゃないの。例えば、初めてコウモリ傘を発明して雨の中をさして歩いた人は、みんなに大笑いされたらしいけど、しばらくするとみんな傘をさして歩くようになった。ものの価値をきちんと判断する能力がないのに、変わっているとか新しいからという理由だけでの排斥しようとするのは、褒められた態度じゃないね。
旧日本人が、新しいことを否定するのは、「それが何なのかを判断できない」という理由と、もうひとつは自分の上下や周囲との関係をうまく維持することに気がとられすぎているという理由があると思うよ。仲間の方ばかり注意していたら、お客さんの嗜好の変化について考えたり、それを仕事に繁栄する改善提案をしようなんて考えなくなっちゃうよね。
だから、旧日本型企業の結果平等主義というのは、本気で頑張って働いている人間にとっては許せないことだと思うよ。旧日本人が無批判に持っている「平等意識」というのは、仕事を通した新しい価値の創造を妨げる原因になってるんだ。