■批判精神の欠如・内向性 / 客観的批判精神4
若造 そこには、「客観」というものが存在しないね。
だけどそれはおかしいよ。隣の席に座っている人間とぼくは、まったく別人なんだから。彼がやった不正や失態の影響をぼくが被るのは理不尽だし、彼の業績評価とぼくの業績評価が変わらないというのは明らかにおかしい。だって能力も、やった仕事の結果も違うんだから。
自己責任原則で、自分でよく考えて行動した結果がうまくいけば、相応の報酬を得るのは当然のことだし、反対にうまくいかなかったら給与が減るのは仕方がない。責任のある地位の人間であれば、「自分はなぜ失敗したのか」原因を明らかにした上で潔く責任をとる必要がある。原因を究明するのはその人を責めるためではなくて、次の人がまた同じ失敗をしないようにするためなんだよ。それを、「メンツがつぶれる」と言っていい加減に済ませているから、いつまでたっても先に進まず、同じ失敗を繰り返すことになるんだよ。
おやじ 不人情な奴だな。そんな冷たいことを言わずに、「仲間と一緒に歩んでいこう」というのが、日本企業のいいところなんじゃないか。
「自分よりあいつの方が給料をたくさんもらってる」と思ったら、ばかばかしくて力が出せないだろう。そういう優しさが今の若者には足りないよな。大きな仕事をしようと思ったら大勢の仲間が必要だから、「できるだけ人に嫌われず、受け容れてもらって共に生きていく」という姿勢が必要なんじゃないか。そう考えたら、むやみに人を批判するのは賢い態度とはいえないんじゃないか?
若造 「嫌われたくない。そのために人を批判しないし、悪平等も受け容れる」というのは、自分の弱さの裏返しなんじゃないのかな。自分が産み出せる価値に自信があれば、人に嫌われることを恐れる必要はないからね。
おやじ だからお前たちは人に対して冷たいというんだ。
若造 ぼくたちは、「とにかく周りの人全員にいい顔をする」という優しさは持ち合わせていないね。
だけどその代わりに、相手に対する自然な思いやりを持っていると思うよ。ぼくらはまず、「他人も、自分と同じような心を持っているんだ」ということを感じるし、相手を人間存在として尊重したいと思ってる。だからよく話してみて、「お互いの利益になることができないか」ととことん考え、行動するんだよ。
ところが、旧日本人を相手にすると、まずコミュニケーションがとれないから、思いやりの示しようがないんだけれど。
おやじ 相手から何かの反応がなければ示せない思いやりなんて、本当の思いやりじゃないんじゃないか?
若造 旧日本人の思いやりというのは、相手が何も言わないのをいいことにして、ともすれば自分の利益を優先する、表面的で見せかけだけの思いやりじゃないかと思うけどな。
「弱者救済」を叫ぶ人間には二通りいると思うんだ。ひとつは、自分自身の立場を離れて、純粋に弱者救済を目的に活動している人。もうひとつは、それにかこつけて自分自身も救済されることを前提にしている人。どちらかというと自分の利得のほうが先の人。
そういう人は、「みんなを同等の生活水準に保つのが平等の精神に則っている」というんだけど、その生活の水準自体がかなり上がってきているから、社会保障のコストは大変なものになっている。保護主義論者も同様で、自分が保護主義の恩恵を受ける立場にいる人が、いくら「規制撤廃反対」を叫んでもあまり迫力はないよね。
それはみんな、「世の中にぶら下がって生きていこう」とする弱さの裏返しかもしれないよ。本当に相手のこと考えて、弱者救済を主張しているんだろうか?
おやじ しかし本来、会社の中で実際にバリバリ働いて利益を生み出すことができる人間は全体の2割、下手をすると1割ぐらいしかいないんだから、それ以外の人間を彼らが養っているという構図を否定することはできないだろう。