旧日本社会は全体依存的な共同体だ
インタビュアー 飯坂彰啓
運営者 丸山真男について調べたんですけどね。
彼の論には、なぜ旧日本人はバカな考え方や行動をするのかについての、解答があると思うんですよ。まったくすごい碩学、師表だと思います。
彼はまさに、新日本人的な視座にあったのでしょう。
山本七平と同じですよ。それとも、当時の日本人は戦争の反省もあって、みんな自己を相対化する視座を獲得していたのか・・・そうは思えませんが、とにかく丸山は古いタイプの日本人の社会観や政治観について、相当鋭い洞察を行っていて、それを越えるものはまだ出ていないと思います。
僕の発想も、基本的に彼の枠組みを越えるものではないと思いますね。
それでね、彼の論は非常に浩瀚で、かつ深い。単純に体系的な整理もされていない。そこで、われわれ有象無象は、自分の立場や興味に近いところを囓ってどうこう言うということしかできないわけです。牽強付会ってやつなんですけどね。
で、私の場合は、大上段に構えて切り込みますが、現代日本の病的な傾向の根源は、私はやはり、日本人の共同体的な意識と、それに基づいた社会構造にあるように思えてならないんです。
つまりね、まず基本は「旧日本社会は共同体だ」ということ。丸山は、こう指摘しています。
自然の災害も人間の犯した罪も、ハライキヨメの対象と見る
倫理意識の規範は所属している共同体にある。普遍的な倫理規範に昇華しない
そういう、なんとも無責任であなたまかせ、全体依存の社会観が日本人の社会観の根底にあります。
そしてその共同体は、「天皇制」という不思議なシステムによって統治されています。
その特徴は・・・、
統治権の帰属者と実質的な権利行使者が分離している
正統性の所在と、政策決定の所在が分離している
天皇が表に出てこないのが正統性の根拠
天皇への奉仕は共同体への奉仕に限りなく近い
「政事」という言葉の由来は、「祭事」ではなくて「奉仕事」であろう。天下の臣連以下百僚が天皇の大命を受けて、各自その職務に奉仕するのが、即ち天下の政である。 ・・・つまり政事をするという場合の主語は君ではなくて、君に奉仕する臣連たちなのだというのが宣長の解釈です。 (『政事の構造 政治意識の執拗低音』)
「権威」を持つ天皇は祭り上げられていてなんの力もない。支配の「実権」を持っている官僚や武士は、真ん中にいて威張っていて、その下に被支配階級がいるという構図なのですが、重要な点は、実権を持っている者と権威をもっている者は、お互いがノーチェックであるということなのです。
政治を実際にやるのは臣連(まへつきみ)なんです。彼らが天皇に「つかえまつる」というのが「政事」です。
そういいながらこいつらは好きなように政治を行う。
でもって、宮中に参内して「かえりことをます」、つまり報告するんですね。そうすると天皇は「きこしめす」、つまり聞いてあげるわけです。そうやって天皇は、「あめのしたしろしめす」(治天下)わけです。
そして天皇自身も実は皇祖神に対しては、また天神地祇にたいしては「まつる」という奉仕=献上関係にあって・・・絶対的始点(最高統治者)としての「主」(Herr)は厳密にいえば存在の余地はありません。(『政事の構造』)