番外編 「自由競争」について
これは、丸山真男の『忠誠と反逆』の中に出てくる一節ですが、自由主義市場経済をかたくなに拒絶する人々の意識はこの辺にあるのではないかと思えて、非常に興味深い指摘なので以下に引用します。
さきに、明治末年における組織の硬化からくる青年学生の疎外感についてのべたが、実は資本主義の急激な発展と、それに伴う日本型の都市化に伴って、ほとんどあらゆる集団と組織の内外に、連帯性の欠如からくる疎外感が蔓延して行った。本来「ルール」の確立なしには考えられない自由競争のイメージは、ここでは、あらゆる手段と方法で他人または競争集団をはねのけて一歩でも先へ出ようとする「修羅場」と同義であった。(ボールド体部分の原文は傍点)。
私は、基本的に旧日本人が上意下達の共同体的生き方をありがたがっているのは、彼らはまったくもって、社会性に関する感覚が幼稚であり社会不適応ですらあるからだと思っています。
丸山の考察によれば、共同体志向の強い人々が「自由競争」という言葉に抱くイメージは、まさに弱肉強食、なんのルールもなく、強い者が弱い者から一方的に収奪するというものだということがわかります。実に稚拙な社会認識といえるでしょう。
旧日本人は、秩序は権威によって守られると理解しています。つまりお上や力の強い者がにらみを利かしているからこそ、彼らのタコツボ型の社会は成り立っているのです。でもほんとうは旧日本人はお上に収奪されていると思いますがね。
自由競争が行われる社会では、秩序はルールによって維持されなければなりません。上位のものにも下位のものにも等しくチャンスは与えられなければならないからです。
つまるところ、旧日本人は自分たちの社会の慣習や、極端な場合は親分が「ルールを破ってもよい」と黙認した場合や、みんなが暗黙のウチにルール破りを談合した場合には、定められているルールを破ってもよいと考えていることがわかります。
また、旧日本人は「自分たちの社会では成功のチャンスはより強いものに多く与えられ、弱い者はチャンスは少なくとも従容として従うべきである」と認識しています。
これは、「生産性を最大化するよりも、秩序を守ることの方が重要だ」という価値観に基づいた認識でしょう。
というわけなので、旧日本人の社会観においては、ルールやら契約などという人的な担保のないものに基づいた自由競争は、極端な勝利か、身ぐるみはがれるかしかない博打のような不安定で恐ろしいものだと思われているのだと思います。
これは最低限の生活を保障する憲法の「基本的人権」すらも眼中にない(そりゃそうでしょう。憲法など、彼らがまさに信用しないルールの親分ですから)、非常に偏狭で自分たちの流儀のみにとらわれた「偏見」としか言いようがない社会観だといわざるをえません。
しかしそれが多くの日本人がいまだにとらわれている発想であるということを否定することもむつかしいでしょう。やれやれ
(この項終わり)