旧日本人のメンタリティー■
論理性欠如
論理とか法則に従わず、感情的、感覚的判断を行う
自分にとってメリットがあるか、自分の立場にプラスかどうかという近視眼的な基準で物事を判断する
旧日本人の問題解決のための判断基準は、「いかに組織の和を乱さないか」であり、次に自分にメリットがあるかどうか、自分の集団の中での地位を向上させる可能性があるか否かである。旧日本人は仕事の上で「論理」や「合理性」をぎりぎりまで考える必要性に迫られる局面はあまりない。だからそうした感覚が磨かれないままに高度な判断を下すべき地位に登ってしまい、大事な時に大きな過ちを犯してしまう。
古来、わが国では占いで戦争をするかしないかを決めていたくらいである。開戦の決断は、相手の武器や戦術、生産力と当方のそれを勘案して、こちらが有利な場合に限り開戦に踏み切るべきものだと思うが、それを動物の骨の焼け具合といった偶然に任せてしまうというのだからすごい。まさに神頼み、その本質は敵に対する感情の爆発でしかない。ここが「神州不滅」の精神論に結びついている。精神主義は、勝敗の確率とは本質的に関係はない。
「理屈を言うな」というのは、旧日本人が「形勢悪し」と思った時の切り札のセリフだ。これは彼らが、「理屈など必要ない」と内心思っていることを白状しているに過ぎない。旧日本人にとって理屈より何より大切なのは「組織の和」であり「長幼の序」だ。若造が理屈を言って目上の者を論破するという可能性はていねいに排除しておかなければならない。
さらに、世知辛い人の海の中で、他人と仲良くする時に便利な関係性が、「なあなあ」と呼ばれるものだ。物事を区別してきちんと認識しようとする方向とは逆で、些細な違いから死命を制する重大事まで、幅広く、なんでも丸めて差違を解消してしまう魔法の大風呂敷である。
最初の時点で決め事を曖昧にしておけば、将来的にも物事に矛盾が生じない。法律の文言にやたらに「等」が多かったり、会社の定款に「……に付随するすべての業務」などと書いているのはそのためであろう。これらは「運用者のその時の都合で好きなように変更できます」という意味である。これでは決め事の意味がない。時には、最初の決め事と全く逆のことをやる時の根拠にすらなってしまうのだから、恐れ入ったことだ。
かくしてわが国の最高裁判所は「一票の格差が一対三以内であれば違憲ではない」としているのである。前提が曖昧なところに、論理の存在する余地はない。