旧日本人のメンタリティー■
批判精神の欠如・内向性
「目上の者を指さしてはならない」と思っている
自分の仲間なら、反社会的なことをしていても批判しない。「身内の恥は我が身の恥」として不祥事を隠匿する。しかし、たいていはバレてひどい目にあう
旧日本人は、自分の属する組織に対する批判は許さない。会社組織の中にいる人間は、組織の全てに対して徹底的に無批判でなければならないことになっている。エライ人に「アナタのやり方は間違っている」などと言ったら、その瞬間から村八分だ。そんなことだから状況が変化しているのに現実を把握できず、「自分たちにとって何が問題なのか」を発見できないのだ。
私が自分のウェブサイトで、以前勤めていた会社に対してネガティブな表現をした時、「あなたがあんなことを書くなんて驚いた」と読んだ人に言われたことがある。なるほどそういう意識を持っている人は少なくないだろう。それはその人にとっては美意識なのだろうが、よくないことを指摘せず放置しておこうとするのは、私に言わせれば社会への参加を放棄した姿勢でしかない。「それじゃ、あなたは日本に住んでいるんだから日本の現体制に対して文句を言うのはよくないと思っているのか」と問いたい。それでは物事はいっこうに進まない。
こうした発想は、「どうせ何を言ったって世の中変わるものでなし。言って変わるくらいなら、とっくに変わってるよ」という、自分が寄りかかっている権威に対する妥協的姿勢から来ている。だが、批判精神から出発する問題意識を果敢に表明して外部に働きかける態度を持たなければ、組織も世の中も変わることはない。「放っておけば自然によくなる」というのでは、日本はここまでダメにならなかったろう。革新は他の誰でもない、自らが起こすものなのである。
旧日本人は所属組織のトップの無能についても実に寛容である。トップの責任はよほどのことがない限り問われない。そこには「組織の長であるからこそ無能であっても許される」という倒逆したロジックがあるようだ。有能だからトップになったわけではないが、トップであるからには無能であっても許されるということなのだろう。
ノモンハン事件というと古い話だが、この時独断で軍隊を動かし、ソ連軍と衝突して大敗するという恐るべき軍律違反を起こしたのが辻政信少佐である。戦闘で死傷した日本兵は二万五〇〇〇名にのぼる。勝手に戦争を起こしてしまった辻少佐は、しかし軍法会議にもかけれらず、すぐに出世コースに復帰。戦後は国会議員に当選している。
誇り高き銀行だった日本長期信用銀行は不良債権の重みに押し潰されて九八年に国有化されてしまったが、新宿支店長として、長銀の内部を知る箭内昇氏の書いた『元役員が見た長銀破綻』では、氏が誠実な態度で同行の敗因を分析している。典型的な旧日本型組織の欠陥と、それを許してきた旧日本人の意識を、新日本人的な観点から指摘していると言えると思う。そしてここでも旧日本軍と同様に、暴走幹部が失敗の責任を問われず、傷口を広げていった事例が紹介されている。
バブル期に不良債権増大の原因となる、現場への「青天井の決裁権限」を与えた二人は、後に頭取まで栄達したし、二信組に貸し込んでいた常務はその後不良資産専任役員へと出世、貸し出し責任はうやむやにされた。長銀OBである不良債権受け皿会社のトップたちも、実質赤字なのに無事に退職慰労金をもらっていた。そして不良債権は止めどなく膨張して、処理のために投入された公的資金は七兆円近く、そのうち三兆円強は回収不能で国民負担になると見られている。