旧日本人のメンタリティー■
批判精神の欠如・内向性
なぜ旧日本人は、身内をかばうだけで、批判精神を持たないのか。組織目的が曖昧だからだ。「組織の存続(と膨張)」の他に目標がなければ、組織の論理に従っている身内を責める必要はないだろう。一人のまちがいで組織が潰れることは稀である。
さらに旧日本人は基本的に、「自分が思ったことを表明するのはよくないことである」と意識している。彼の価値観のスタンダードは、彼が属する組織の中で与件として共有されている組織文化の範囲から一歩も外れてはならない。したがって、もしある事柄に対する個人としての認識が、組織の中でよしとされている規範から外れていた場合は、迷わず組織としての判断を優先するという訓練が行き届いている。もしその組織的判断が社会的なルールに違背していたとしても、旧日本人がそれを「内部告発」するには大変な嘉藤を伴う。なんとなれば、それは自分を守ってくれる「仲間」に対する裏切りであると考えるからだ。「組織目的に逆らう奴は仲間ではない」として指弾するような発想はない。「仲間を裏切るくらいならウソをつく方がまし」というわけで、旧日本人の麗しい同志的結合は、やすやすと社会的規範を乗り越える。これはカルトの論理に近いのではないか。
たいていのことであれば旧日本人は、組織からの直接間接の心理的なプレッシャーに負けてしまって、口をつぐんでしまうのが普通である。そうした処世術が、「やばいことはとにかく隠蔽する」「沈黙は金なり」「自分一人の胸にしまって墓まで持っていくのが美徳だ」という認識に結晶化している。
旧日本人が言う「危機管理」の意味の半分は、そうして隠蔽していたウソがばれた時にどう対処するかという話になっている。最初からオープンにしていれば大きくならなかった話でも、隠し通そうとすることでますます問題をこじらせてしまう。
防衛庁内では、情報公開を請求した個人を調査して、防衛庁の個人情報リストを作成し、情報漏洩を管理しようとしていた。それだけでも情報公開法の趣旨を理解しない脱法的性格が感じられるが、さらにその事実が内部告発されたことに対して、自民党の部会で森岡正宏衆院議員が「リストを作るのがなぜ悪いのか。むしろ、なぜ情報が(マスコミに)漏れたのかが問題だ」と発言、それに対して伊藤康成・防衛事務次官は「『漏らしたやつが悪い』というのは、まさにその通りです」と応じたと報道されている。
旧日本型組織では「マイナスは内部でもみ消し、外部には出すべきではない」という文化が浸透しているのである。旧日本人にとっては、組織の内と外の境界は乗り越えてはならないルビコン川なのだ。