旧日本人のメンタリティー■
批判精神の欠如・内向性
旧日本人は、「基本的に自分より偉い人間の言うことは正しいとして振る舞った方が得だ」と考えている。つまり、目上の人間に対しては、自分の信念から発する意見や問題意識、批判精神を発揮できないことになる。「そういう知恵は抑制するのが世渡り上手だ」と考えているのかもしれない。しかしこれでは、個人が身につけてきた経験やノウハウは、仕事の意思決定の上でまったく意味を持たないことになってしまう。その事実に問題を感じないというのは、効率性やコストについて真剣に考えないことと同様に、ビジネスを誤らせる重要な問題点である。
そして、その目上の者が統べている組織自体についても、また空気を共有する全ての成員についても、「批判を行うことは目上の者を指さすことにつながる」として、タブー視さていれる。なぜなら統率者の行いは完璧であり、瑕疵はないことになっているからである。旧日本型組織の成員には、自分の存在を共同体自体と一体化することが求められている。自分は全体を体現するものであり、他の構成員もまた全体の一部分でありながら全てを反映している。全体と個が融合したホログラム的構造が、旧日本人の意識を規定している。つまり組織の仲間が不正をした瞬間に、自分の意思とは全く関係なく行われたことであっても、「既に共犯になっている」と意識されるのだ。
こうした同化意識と行動形態の比喩として、アメリカの人気SFドラマ「スタートレック」に出てくる人類最強の敵、「ボーグ集合体」がまさに酷似している。これは人の形をしていながら生物と機械の両方の特性を備えた生命体のおびただしい集合体で、全員が一つの集合的な意思を持っており、個々の単位は「個人」の概念を持たない。個体は弱々しいが、全体となると強力な破壊力を持っており、「われわれはボーグである。抵抗は無意味だ」と言いながら、あらゆる生命体をなぎ倒しつつ、不気味かつ機械的に地球に迫るというものである。この「謎の生命体」は、製作当時アメリカ市場を席巻していた日本メーカーに対して彼らが抱いたイメージをモデルとして創造されたのではないかと思えてならない。
ボーグの単体は、そもそも自分たちの集合体の存在を批判することなど思いもよらない。集合体において全てが始まり全てが終わるので、個性に基づいた批判という概念が存在しない。批判は自らの存在の否定に他ならないのだ。もしボーグが「恥」という感情を持つならば、旧日本人のように、まぬけな身内の恥は外部に漏らさず隠蔽しておきたいと思うかもしれない。
旧日本人の「嫌われず、人に受け容れられれば、仲良く共に生きていくことができる。だから人を批判するのは控えよう」という処世術は、自分の弱さの裏返しに過ぎない。強ければ、人に嫌われても問題を感じない。悪平等は、弱さの裏返しなのである。
弱者救済を唱える人間は、自分も救済されることを前提にしている。規制撤廃論者はリッチになるチャンスを求めているが、保護主義論者は「みんなを同等の生活水準に保つのが平等の精神に則っている」と主張しつつ、そこにぶら下がって生きていこうとする輩が多い。自分が価値を生む自信がなければ、他人にぶら下がるのは合理的な行動だ。