新日本人のビジネス・マインド■
2.経済合理性をセンスとして身につけている
経済センス =簡単な経済的原則を感覚的に把握している
ex.需要供給曲線 リスク 限界効用 トレード・オフ 機会損益
経営センス =「資本を生かしてニーズに対応し、利益を生むこと」
ex.選択と集中 競争優位 スピード
新日本人は基本的に「経済合理性」で物事を判断する。「これは得か損か」について極めるだけのことだが、儒教的精神に富んだ旧日本人は「損得」よりも「組織の全体秩序」を尊重するよう意識に刷り込まれているので、この基本的な能力が発揮しにくいようだ。みんながシビアに損得で行動していない現状で、ひとりだけ抜け駆けするのは非合理的であるというのも、旧日本人の行動が変化しない原因だろう。
ちょっと信じられないような話だが、日経新聞にこのような記事が載っていた。
--本間正明教授が財政諮問会議で打ち上げた「社会福祉個人勘定」に対して、厚生労働省は「損得勘定を助長し、好ましくない」とコメントした。--
つまり、役所の論理では、「損得勘定」は忌むべきものなのである。社会保障は互助システムとして、憲法で保証する「健康で文化的な最低限度の生活」を守るための国民全員の醵金だ。だからといって、効率を厳しく監視しなくともよいということにはならない。この辺りに「国民全体に広げた大風呂敷の間に入っておいしい思いをしたい」という役所の本音が覗いている。
年金、医療保険、特殊法人、一般財政にたまった赤字のツケは、そう遠くない将来、緩やかな形か、あるいは破滅的な形でわれわれに襲いかかってくるだろう。目睫に迫った危機に対して役所が「国民は損得勘定抜きで堪え忍ぶことができる」と考えている……少なくともそういう主張をしているのはなぜなのだろうか。
久しく謎だったのだが、ある日やはり日経新聞の見出しを見ていて「これか!」とひざを叩いた。
--特殊法人改革、「無傷」財務省に他省庁不満、予算編成控え批判しにくく--
「財務省に撤廃する候補の特殊法人がないことが、他省庁から見て不公平に思えた」という意味である。「"小泉改革は財務省主導であり、その財務省が無傷なのはいかにもまずい"と心配する声がある」との記述もあった。これを裏返すと、「全省庁が痛みを受け容れるのであれば、自分たちもその痛みに耐えることができる」となる。彼らはそのロジックを全国民に延長して、「将来の財政にどのようなロスが発生しようとも、全員が均等に負担するんだから問題はないんだ。われわれは同胞なのだから、どんな苦しみも等しく受け入れるべきだ」と強要しているわけだ。
そしてさらに話を進めると、「堕ちていくのなら共に堕ちよう、地獄の底まで」という話が現実的に進行しているのである。ヤクザの組織のようなもので、そこから抜け出ることは許されない。どうしても抜けるなら「小指一本置いて行け」ということになる。全員が受苦することが、無理を押し通す理由になるというロジックが、「損得勘定などをするのは卑しいことである」という考え方の根底にある。
役人にとっては、無理をして帳尻を合わせる必要はないのだから、経済原則など勉強しても意味がない。必要なのは法律知識だけということになる。だから旧日本的な中央集権的組織の文化にどっぷり浸かっている人にとっては、健全な経済センスを発達させることは容易なことではないのである。
まともなビジネスマンであればビジネス上の複雑な事象について適切な判断を下すために、「損得勘定」のさらに先に、簡単な経済的原則を知っておく必要がある。「価格は需要と供給が決定する」、「リスク」「限界効用」「トレード・オフ」「機械損益」「選択と集中」「競争優位」「スピード」といった概念をあらかじめわきまえていない人間とは、議論することすらできない。
加えて、資源の組み合わせ方、運用の仕方を変えることでよい結果をもたらす経営についての感覚を身につけなくてはならない。社内外の資源を適正に評価し、正しく組み合わせ、最小コストで運営しなければ、同じ条件で闘っているライバル企業を打ち倒すことはできない。
長銀のケースでは、「ともかく粗利益をあげよ」と融資本部長が檄を飛ばし、リスクもコストも考えずに貸し込んでいった事実が指摘されている。「そこにはボリュームの概念はあったが、経費や効率の観点はなかった」と箭内氏は観察する。数字で冷静に実態を把握し、トレード・オフ関係やリスク管理といったコンセプトを使ってビジネスをコントロールせず、目の前の数字を作ることに終始していたら、ビジネスリーダーは悲劇への先導役にしかならないだろう。
「そんなの知ってるよ」と思われるかもしれない。しかしそれをセンスとして身につけ、さらに実践しているビジネスマンは多くない。山一にも拓銀にも大勢のMBAホルダーがいたのである。有益な経済・経営の知識を勉強して知っていたとしても、その知見を反映した合理的な判断を、他の要素(特に人的要素)よりも優先しようとする強い意志と目的意識がなければ、義理人情や建前を優先する旧日本人たちに引っ張られて判断に歪みが生じてしまうので、ありがたい知識も全く役に立たないだろう。経済合理性は、知識としてではなく、センスとして身についていなければ効力を発揮することはない。
早い話が、旧日本人は「合理性」をまったく軽んじており、その代わりに「カイシャ天皇制」のような「真空的なる価値」や、それを維持するための無意味な「権威・地位」をありがたがっている。重要資源の配分や戦略決定という問題解決に関して、経済合理的思考に立脚する新日本人と、どの次元でも損得勘定を否定し仲間主義を優先する旧日本人が意見の一致を見ることは極めて希だろう。会社が明日にも倒産するという状況まで追いつめられて初めて両者の意見が一致するのだが、その時には既に打つ手はない。