旧日本人のメンタリティー■
親分肌の明るい笑顔
政治家に話を戻すが、これを全国的な規模でやっているのが、公共的な資源を配分する利権に群がっている利権政治家たちである。守旧派の政治家たちは、構造改革を主張する選挙基盤の弱い政治家に比べれば、非常に人受けがよい。「自分の周りによってくれば、利権のおすそ分けを上げるよ」と言って、業者を飼い慣らしているのだから、人気があるのは当然である。
彼らは予算のカットや、意味のない公共事業のストップ、国営事業の民営化や公社公団の合理化にも「一番大切なのは国民生活を守ることだ」と大声で異を唱える。しかしそれは、「本来の受益者の利益を慮ってのことではない」ということに有権者は気づかなければならない。守旧派の政治家たちは、自分たちが食い潰すための税金が減らされていくことに対して異を唱えているだけなのだ。「よしよし、全部オレに任せろ、悪いようにしないから」といって税金を使いまくる政治家を支える愚をいい加減に悟らなければ、骨までしゃぶられてしまうだろう。
旧日本人の「意識のマイナス部分」にたかるダニ、それが守旧派の利権政治家である。役所が市民に対して公共事業の費用対効果が判断できる詳しいデータを明らかにすることにすら、「そんな資料ではわかりにくい。誰にでも(結論が)わかるものでなければダメだ」と反対する。彼らにとっては、市民に主権を渡すなどとんでもないこと、有権者はバカであってくれた方が都合がいいのだ。「ハーイ、よい子の皆さん、僕の回りに集まってきなさい。これからお菓子をあげるよ。はい、みんなお菓子をもらったかな、これから紙芝居始めますよ~」と人気を集めておき、その実彼らから搾取しているのだ。「お上が指図してやらないと、国民は何もできないものだ」という衆愚政治の発想は旧日本人政治家の専売特許である。
逆に新日本人は市民の力を信じる。仁徳天皇の逸話では「民の竈」の煙が細るのを見て、天皇は国を縮小させることによって、民を栄えさせたとされている。仁徳天皇は民の力を信じていたが、左右の守旧派政治家どもは、「お上が指図してやらないと、国民は何もできないものだ」。「なんでも国がやっていればまちがいはないのだ」「自立して働いて、自分自身が食べるものを稼ぎ出すなんてことは、民草どもにはできないだろう」と思っている。ありていに言うとバカにしている。実際、国民の中には怠け者もおり、守旧派政治家どもの回りに群がって、既得権益集団を構成している。守旧派政治家は彼らの利害を代弁していれば選挙に当選し続けるという共生関係が確立している。
しかし、この利益配分の関係性にとらわれてしまっては旧日本人の仲間に入るだけだ。これこそ、抜本的に改革すべき対象となる構造である。
「個人個人の可能性を信じ、それをネットワークして組み合わせ、その力を最大化したときに国家としてのパワーが出てくる」という民主主義的発想に立脚した所得再配分の構造を取り戻すことは、われわれにとって喫緊の課題なのである。