旧日本人の価値志向性■
価値軽視
モノの「価値」をあまり深く考えようとしない。
だからさし迫った危機意識を持たないし、価値観の違いを根拠にして他人に「NO」を言わない
「現状のままでいれば、常に明日という日は来るはずだ。何が問題で騒いでいるのか」と他人事に受け流している
「価値観」とは、各人が各々の心の内で定めている、「物事の持つ意味づけ」である。
日々、何かの折に深く考えていくと最終的には、「人間とは何か」という疑問に到達するだろう。われわれは、いずこより来たりて、何のために生き、いずこへと去るのか。
そこからすべての疑問がスタートし、自分たちを囲む現実を検証してものの価値や意味を考えることになる。ルネサンスの時代の人間たちが、それまでの中世の神による呪縛を離れて、自分の足で立ち上って考え始めたのも、ここが出発点だったのではないだろうか。
「人間とは何か」を真摯に考える態度を持っていたから、「地球の回りを太陽が回っているんじゃない、本当は太陽の回りを地球が待っているんじゃないだろうか」という、今まで自分が立っていた常識を全く覆す認識に到達したのである。科学的態度というのは過酷なものであり、根源的な疑問を持ち続けなければ保てない厳しさを持っている。
しかし旧日本人は、普段はそのような真剣な問いを自らに課す必要性を感じていない。自分の中で独自の価値観を追求し続ける姿勢を持たないのだ。
「何が正しいか、何が間違っているかという判断基準は、原理原則に従って、自分が主体的に決めるものではない。判断基準はその時その時において、常に自分の周囲からもたらされるものであり、周囲の状況に応じて、なるべく多くの人と同じ選択を行っておけば間違いがない」という相対主義的な処世術が身についているので、時代や環境は変わっても変化しない不朽の価値を追い求めようとする気持ちはあまり持たないようだ。群れで行動する小魚や草食動物を思わせる行動様式である。そして、そうした付和雷同型の思考・行動傾向を持つ人間だけで群れようとし、自分たちと違う価値観を持つ人を許容せず、組織から追い出してしまおうとする。
基本的には、「前例踏襲でまちがいがない」と思っている。だから、さっぱり評価能力が身につかないのである。その欠陥を埋めるために、メンツにこだわり、進歩の可能性を捨てて、安定的で癒着的な固定関係の世界に安住しているのだ。
旧日本人はカイシャに自分の精神をゆだねることによって、自分で自分を縛ってしまい、それ以上先のことを心配する必要がなくなるような工夫をしているのだろう。
もしも信仰や、会社組織への盲従といったくびきを取り払ってしまえば、人は自分自身のあり方に対する怖ろしいまでの疑問(「これでよいのだろうか」「果たして自分の生き方は正しいのだろうか」)を持たずにはいられないだろう。これでは不安でたまらない。
「人間とは何なのか」という疑問に対する確たる回答は、どんなに探し回っても出てこないし、人間はどんなに頑張っても自分自身を隅から隅まで完全に理解することはできまい。しかし安直な回答は社会的に用意されている。それが、生活の規範を提供してくれる宗教であり、また「自分の生活の大部分は仕事である」と狭く自己規定して、旧日本型組織のロジックを受け入れてしまえば、ある意味自分自身が何者であり何のために生きるのかという疑問に対する答えが得られる。そのかわり旧日本人は、向上心のような重要な心の働きや、効率性といった経済的概念を切り離していることに注意が必要である。