旧日本人の価値志向性■
価値軽視2
「カイシャ主義」という絶対的な価値への帰依と依存は、魂の平安への扉を開く。自分とは何か、人生とは何かという問いに対する、非常に魅力的な回答であろう。社会人になるまでの間に、そうした旧日本的信仰の誘惑にあらがい続けるというのは至難の業であり、たいていの人間は旧日本型組織に組み込まれて、正当派の旧日本人になってしまうという不幸な現実があることは否めない。
人は本来は、定められているルールや普遍的価値に基づき、それと自分の価値観を照らし合わながら行動を選択するものである。何かに反駁する時は、自分の持っている価値観に反することだからこそ、強く「NO」を言えるのだ。
ところが旧日本人は、「支配=従属関係」(強者が弱者を支配し、どのような場合にも逆らわず、一方的に収奪する関係)を対人関係の基礎としているので、支配力を持つ人間から、「こうしろ」と命じられたら、何も考えずに実行することに全く抵抗を感じないし、またそれが「あるべき姿だ」と考えている。旧日本人は「相手を動かすためには指示命令すればよい」と根強く思い込んでいるのだ。
ピラミッド型組織であればそうした命令の伝言ゲームをやっていればよいのかもしれないが、最近はやりのフラット型組織であれば、各人が状況に対応した判断を適宜適切に行うことが要請される。
個人が物事を判断するためには、最低限「やって良いことと悪いこと」をはっきり示すルールに従う必要がある。そして周囲の人間関係や会社の社風に縛られず、周囲の利害関係者に最も利得をもたらすような判断をするべきだ。
新日本人は、そのような価値観を持っている人間を、信頼できるパートナーとして、旧日本人の海の中から探し出す必要がある。
旧日本人に、「ルールと普遍的価値に基づいた行動をとるように」と期待するのは無駄である。そのような期待をすると、必ずちぐはぐな結果になってしまうだろう。旧日本人と新日本人の行動原理はまったくかけ離れていて、ほぼ重なる部分はない。ここには絶対的な懸隔がある。哀しいことだが、その現実を踏まえて行動しないと仕事が前に進まない。