旧日本人の社会観■
カイシャ中心的社会観=閉鎖系社会観
自分の縄張りである所属組織の中だけで生きている
発展性に乏しく、変化への適応力も、ダイナミズムにも欠けた集団主義、封建制、中央集権システムが健在
旧日本人たちは、自分たちが生きている社会をどのように捉えているのだろうか。
彼らにとっては、会社は自分たちの「生活の舞台」にほかならないので、旧日本人の社会観は組織観と重なっている。
そしてそのカイシャは、みんなが力を合わせて利益を生み出すための「コーポレーション」ではない、「カンパニー」でもない。実態は「エンパイヤー」である。
この絶対主義帝国は、集団志向、封建制、中央集権システムを具備している。帝国の存続目的は、皇統(実力社長の系譜)の存続に集約されており、この目的のために全社員が隷従しなければならない。王権神授された一天万乗の君の権威が世界観の根拠になっており、異なる社会思想を持つ外部の世界に対しては、相手の存在自体を否定するほどの中華思想、拝外傾向を持つ。だから「市場開放」などは認めがたい。鎖国的である。外部と衝突すれば、独り善がりな根拠で徹底的に攻撃する(負けたらすごすごと引き下がるのだが……)。
支配下の社員に対しては非常に抑圧的で、個人の自由な活動や反体制思想は存在を許されない。そこでは「近代市民社会の論理」は全く通用しない。
旧日本人は、長年あまりにも会社に親しみ過ぎたため、「自分は会社の中でしか生息できない」と思い込んでいる。また「すべての組織は、自分が勤めている会社と同じように封建的で、中央集権的、かつ権威主義的なもの」と思い込んでいる。
そうした閉鎖系の中で生きる彼らにとっては、「自由」とは、かえって不自由なものなのである。これは新日本人からは非常に特異に見える精神構造だ。彼らは依頼心が旺盛なので、「だれかに自分を縛ってほしい、抑えつけてほしい、目標を与えてこき使ってほしい」とすら思っている。それが「サラリーマン体質」であろう。
旧日本人とは、自由から逃走したがる人種なのだ。もし自由を得てしまうと、歩く方向を自分自身が決めなければならないし、いちいち判断を下さなければならない。他人との関係をそのつど新しく作るわずらわしさにも悩まされる。新日本人にとっては「自分で物事を考える」のは、楽しみの源泉であろうが、旧日本人にとっては耐え難い苦痛だ。彼らは権威から与えられる価値や、指し示される方向性をありがたがる。彼らは、『カラマーゾフの兄弟』作中の「大審問官」に唯々諾々と従う民草である。