旧日本人の社会観■
自己目的化・曖昧なリーダーシップ
会社は利益追求を目的としていない。ただ存在すること、生活が続くことが目的である
リーダーに実権はない、主権者も存在しない、曖昧な統治システム
基本的に会社と自分の、一対一の関係だけを考えていれば生きていける
では旧日本型企業の目的とするところは何か。
ピーター・ドラッカーは「企業の目的は企業の外に存在する」としている。ある主体の活動の目的は、彼自身の中にはないのが普通なのだ。ところが旧日本型組織の場合は、「儲けることが目標だ」とは考えられていない。
社長がどんなに号令をかけようが、社員の側は「会社は利益を出すための機能体である」とは認識できない。むしろ「所属先であり依存の対象だ」という意識を根強く持っている。つまり、組織の存続と肥大そのものが自己目的化しており、成員の間で「よりよく目的を達成するにはどう動けばよいのか」という行動指針が共有できない。自分の生存を保証する組織の存続と肥大以外に目的がないので、効率性という概念は存在しないのだ。これでは儲からなくて当たり前、変われなくて当たり前である。
旧日本型組織の追求するべき目的はそもそも存在しないのだ。目的は空虚であり無であり、そもそもない。フランスの哲学者ロラン・バルトが東京を評して「いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である」と喝破したのと同様に、この社会の中心は、天皇という実体のないシンボルなのだ。神社で買ってきたお守りを分解してみると、中には何も入っていないように、実体がないことこそ至高の価値なのである。天皇は帝国の中心なので御稜威を持っていなければならない。しかし実際のところは、実権は天皇から周囲のものが剥奪しているのだ。
「神のために」を大義名分にして行動している人の中には、「自分のため」に動いている人とそうでない人がいる。後者は真の宗教者だが、そういう人は希である。
カイシャであれば実権はミドルが簒奪している。彼らは決して、現場の実態をトップに伝えない。アイデアも執行権限も彼らが持っていて、経営幹部は祭り上げられており、ミドルがいなければ何もできない。社長にできるのはせいぜい、ミドルの意見を集約し調整することだけである。国家予算編成の時の大臣折衝はもっとひどい。各省庁の予算は財務省主計局との間で予算を詰め、最後の大臣復活折衝で大臣に花を持たせる。数十億の使途が、五~十分の財務大臣との折衝で決定する。長銀でもこのように部下が全てを詰めてから役員に出御を要請する「お膳立て営業」というのが行われていたそうだ。旧日本型組織の役員の仕事はだいたいこのような実質のない「お飾り」に過ぎない。
実際のところを全て仕切っているミドルは、天皇ではないが故に万能ではないし、責任もほぼ取る必要がない。これが現代における「カイシャ天皇制」なのである。
こうした世界に住んでいる旧日本人は、キャンプファイヤーをやっているようなもので、空虚な実体のないものの回りをみんなで囲んで踊って回り、ただ昨日と変わらぬ生活ができさえすればそれでよい。カイシャでどたばたやっていること自体が目的なのである。