旧日本人の社会観■
自己目的化・曖昧なリーダーシップ
会社は利益追求を目的としていない。ただ存在すること、生活が続くことが目的である
リーダーに実権はない、主権者も存在しない、曖昧な統治システム
基本的に会社と自分の、一対一の関係だけを考えていれば生きていける
こうした世界に住んでいる旧日本人は、キャンプファイヤーをやっているようなもので、空虚な実体のないものの回りをみんなで囲んで踊って回り、ただ昨日と変わらぬ生活ができさえすればそれでよい。カイシャでどたばたやっていること自体が目的なのである。
曖昧なミッションしか与えられていなければ、目標達成は、実はたいして重要なことではない。目標を達成しようが、達成できまいが、降格されないしクビにもならない。彼の目に見えているものは、おそらく「地位が上の者と自分との一対一の関係、あるいは仲間との日常的な関係性をいかに円滑に保つか」ということだけだろう。
会社人として「自分自身の仕事を向上させたい」という向上心は、仲間との親和性動機に比べればいかにも弱々しいものである。下手をすると、上司に怒られることなくただ静かに「そこにいさせてもらえさえすればよい」という後ろ向きな発想を持つ人が多いかもしれない。
他人の仕事ぶりを批判したり、あるいは全体のパフォーマンスを向上させるための提案をするなどということも、旧日本人にとってみればまったく余計なことだろう。他の部署の縄張りのことを批判したり、他人の仕事を云々するなどということは、やってはならない「はしたない」ことなのだ。藪蛇を突つくのは損である。自分の職掌範囲だけを知っていればよいから、会社全体がどうなっているかについてはあまり興味を持たない。
だから自分の意見を表明するという習慣もない。これは議論に基づく集団の意思形成にはたいへんな障害となる。何も決まらないし、何も変えられない。そしてまったく進歩がない。こうした社会システムは、アリやハチのように「単純で融通の利かない機能しか与えられていない生物のコロニー」と一緒で、誕生~成長~肥大~崩壊という単線的な過程を繰り返すしかないのである。