新日本人の社会観■
社会参加意識
「誰かに食べさせてもらうのではなく、自分の能力を生かして自分で稼ぐべきだ」と考える
個人個人がちゃんと働けば、十分生活できるはずだと認識している
自立しているからこそ「社会は、一人ひとりが支えるものだ」と意識している。「自分はどう社会参加するか」を考える
自由意思を持つ自立した個人として社会・市場・組織・地域に参加する姿勢は、新日本人に必須である。
「誰かに食べさせてもらう生き方はよくない。人間は自分が働いてつけた付加価値を誰かに買ってもらって、それで食べていくべきだ」という確たる心構えを持つのが、自立する人間の第一歩であり、最低限死守しなければならない一線だろう。この線を譲歩してしまえば、ぶら下がり根性しかないくせに権利意識ばかり強い、旧日本人の世界に足を踏み入れてしまう。
しかし社会に出た当初からその一線を譲って、守旧派政治家や役人にこびへつらい、税金にぶら下がって徒食し、改革の妨げに荷担している人のいかに多いことか。
旧日本人は、「社会とは個人個人が支え合っているものだ」などとは考えることができない。彼らにとって社会=カイシャはあくまでもぶら下がるべき対象なのである。たばこの吸い殻を平気で道端に投げ捨てるような人たちには、寄付やボランティアをやっている人の気持ちなど理解することはできないだろう。少なくとも「自分はそうした社会活動にかかわり合いになりたくない」と考えている。
しかし世の中とは、支える者がいなくなったらもろくも崩壊する、非常に脆弱な存在なのだ。まして社会建設に参加する側より、ぶら下がる人間が方が増えてくると、レバレッジが利いて世の中の傾きはさらに増すことになる。平気でフリーライダーでいられるのは、社会性認識を欠いているからだ。彼らの存在は、新日本人にとっては重荷以外の何ものでもない。
新日本人は、自立しているからこそ、「自分が社会を支えるべきだ」「社会は、個人一人ひとりが支えるものだ、誰もその例外ではない」と意識する。個人の自立と、社会の「全体最適化」を考え始めるのだ。各人が「社会性=全体最適性」に基づいた客観的な判断ができなければ、民主主義はただの「衆愚」に陥ってしまう。