旧日本人の組織観 ■
現状肯定・無目的
「組織秩序の維持が何より優先」と考えている。
組織内では、イレギュラーなことは起きてはならない。創意工夫や、問題提起、現状否定があってはならない
よもやこの世に利益追求を目的とする組織があるなどとは想像すらできない
旧日本人は「カイシャは利益追求を目的とする組織である」とはゆめゆめ考えていない。まして自分の会社がそうであるなどとは、想像すらできない。彼らの定義するカイシャとは、「従業員の総意の上に成り立っている生活共同体」なのである。だから「給料さえもらえれば、それで良い」「みんなが楽しくやっていければそれでいい」と考えているのだが、この「みんな」の中には、株主と顧客は含まれていない。
本来の株式会社は事業活動によって社会に裨益し、結果的に利益を生み出し、最終的には株主が満足する配当を継続的に支払わなければならない。しかし旧日本人にとっての会社の意味合いはこうした目的追求組織とは全く違う。彼らは「自分が所属している会社組織は、自分が生活する場以外の何でもない」と、強烈に勘違いをしている。彼自身の生活さえ保証されればそれでよいという認識がまかり通っているし、「会社は自分たちのものであり、会社の資源も剰余金も、社員の自由になる」と、とんでもない思い違いをしている。
旧日本人の心とカイシャは精神的に融合しており、容易なことでは引き離せない。「カイシャのものはボクのもの。ボクのものはボクのもの」と確信しているのである。であるならば、あくせく本気で働いて利益を出す必要がどこにあるのだろうか。
その旧日本人にとって唯一必要であり、守り続けなければならないものは「集団の秩序」である。顧客や商売相手を考える必要性は、そのようなそぶりを見せるにしても、実は二次的なものでしかない。だから「下手に筋を通すことで、秩序が壊れてしまっては意味がない」と考える旧日本人は、集団秩序の維持を脅かすような要素を、強い正当意識に基づいて否定する。原理原則や論理性は全く軽視されている。これも構造改革に立ち塞がる壁の一つである。
こうした他者依存的な組織感覚は、必ず自分たちの仕事に対する不理解を伴っている。
つまるところ組織で今現在通用していることは、どんなに不合理で道理から外れているものであっても変更してはならない。物事を変えたり、新しいことをするのは、即ち「悪」なのだ。やっかいな「問題」は事の本質に関わらず、上手にもみ消してしまう。彼らには「変革」の意志は絶無である。「これはおかしいのではないか」などと、従来の認識に疑義を唱えたり、既に始まってしまったプロジェクトの意味を否定したり、結果や効果の如何に関わらず他人がやっていることに文句をつけてはならない。なぜなら仕事の成果は、その人の人格と同一視されているので、自分の仕事に対して他者評価が行われるのは容認しがたい失礼なことなのである。自分の仕事に容喙はさせないが、人の仕事にも文句は付けない。自分と相手との人間関係さえ大過なく維持できれば、本質的には仕事などどうでもいいことなのである。
だから自分の仕事の他人による客観的な検証は、徹底的に排除したいと考えている。そこで、個人の意見の表出はプラスには受け取られない。また言論の自由は、このような組織観を持つ人々からは、かえって不自由なことであると考えられている。みんなが黙ってさえいてくれれば、どんなに仕事で手抜きをしようとも、自分の仕事のパフォーマンスがどんなに低かろうとも、当面自分の地位には影響を及ぼさないからである。
何か問題が起こったら、丸めてしまい、闇から闇へと葬り去るのが正しい処理方法だと考えられている。原因の是正というのは、組織秩序を乱す可能性が高いため、「あえて必要だ」とは考えられていない。再度問題が起こったら、また闇に葬り去ればよい。
このようなタコツボ的発想を持つ旧日本人は、「全体の中での自分」という立場を意識できない。恐らく、「個としての自分」が組織から未分化なので、組織や社会と自分との距離感をうまく取れないからだろう。思いっきり依存するか、離れて敵対するかの二者択一しかないのである。だからお山の大将意識はあっても、適切な「役割認識」がどうしても苦手なのである。