旧日本人の組織観 ■
リーダーシップの欠如
「役割認識」ができないので、リーダーシップもなければ、リーダーを支えるフォロワーにもなれない。だから自律的組織行動ができない
ビジネスマンは、リーダーシップについての本を読むのが大好きだ。しかし果たして、役割認識のないところにリーダーシップが可能だろうか。
リーダーは、組織の内と外の区分を心得ていなければならない。そして社会全体の中での組織の位置を考慮して、みんなを指導し、社会全体の中で自分の組織を活かすように導く必要がある。社会性を備えた人物でなければ、これは無理である。
さらに「リーダーの指示に皆が従う」というフォロワーシップがなければリーダーシップは成り立たない。フォロワーシップがなければ、強いリーダーがいても意味はないのである。では旧日本人はフォロワーシップを備えているだろうか。
彼らは従順ではあるものの、自分の役割を創意工夫で改善しつつ、自主的にリーダーに従うという態度を持つわけではない。むしろ自主性は党派的姿勢に直結し、数さえ多ければリーダーをないがしろにして当然と考える。
小泉政権初の官邸主導の予算編成を巡っては、「自民党の総務会で"総理が野党と組んでまで(改革を)やると言っている。党を出たい人は出たらいい"という党内の不満が爆発した」と報道されていた。医療費の本人負担引き上げ問題についても、厚生族議員は最後まで首相に抵抗した。党首に「出ていけ」と言うのは、フォロワーシップとは対極の姿勢である。これでは到底組織力は醸成されない。政治には支持団体との関係や、霞ヶ関とのパワーゲームといった複雑な要素があり、単純に表面に現れた事実だけで現実は測れない。しかし自民党所属議員が党総裁に刃向かうのは、教育上良い効果をもたらさないだろう。
高坂正堯氏はこう書いている。「統治は統治階級の共同の責任であるということが理念的にも実際的にも確立している。(中略)ベネツィアの共和国国会とイギリスの国会はその双璧をなすものといってよい」(『文明が衰亡するとき』)。社会はそうしたリーダー層の自負と責任感が支えるものだ。これは未だに、悪平等の浸透した日本の文化には決定的に欠けている観念なのである。