旧日本人の組織観 ■
地位固執・権威主義
集団依存と地位固執は連関している
「地位は能力を超える」と思っている。無能にもかかわらず指導的地位につき、部下を疲弊させ資源を空費しても、まったく平気である。成功の確信なく業務を指示し、失敗しても「自分が責任をとる必要がある」とは想像すらしない
「出世」とは何だろうか。
旧日本人の住む世界では、個人は階層組織の中で階段を一段一段上っていく以外の道はないといういびつな出世競争が展開される。出世しなければ、ピラミッド組織の中で資源の配分を行うという一番おいしい役目にたどり着けない。
旧日本人にとっては自分が属する組織に最上級の価値があるわけだから、その組織の中での序列が上がることは、少なくとも本人の中では「自分の存在価値を証明すること」になっているのだろう。したがって地位にいたずらに固執することになる。そして地位に固執する人は、どんな小さなことでも揚げ足を取られる冒険を避けたがる。
反対にその地位から追われることは、「人格そのものを否定された」とすら受け止めてしまう。だから今まで日本の会社組織では、降格人事はほぼあり得ないことだった。しかも年功序列だから、時間が経てば無能な人間でも自動的に地位が上がることになっている。「地位が上がっても、降ることはない」という下方硬直性があった。管理職の数が非常識に増えても平気な原因は、「まぁ、みんな仲間なんだから会社に入れば管理職くらいにはなりたいだろう」という、仲間主義に由来する発想である。
「あいつも可哀想だから課長くらいにはしてやろう」という人事的判断が平気でなされるが、課長というのはかわいそうだからするものではない。そんなことでは部下の方がよほどかわいそうだ。
無能な上司たちは「地位は能力を超える」と思っている。そう思えば、なにより本人は安心できるし、自分の意味のない仕事振りを正当化できる。人間性をいたずらに信頼する封建制度は無能な人物に対してやさしい。しかし本来は、その仕事に見合った能力を持つ人物が、その地位にいなければならないわけで、これは全く本末転倒の考え方である。とはいえ、周囲が日々そうした矛盾に悩まされていたとしても、本人がその矛盾に気づくことはない。
地位はまた、免罪符でもある。組織秩序の維持が最優先目標なので、業績が悪化しようと、よほどのことがない限り責任を問われることはないのである。また責任を問われたとしても、それは「外部環境の悪化によるもので、どうも運が悪かった。この景気じゃあしかたないよね」ということで本人も自分の責任であるとは絶対考えないし、周囲も「あの人は運が悪かったね」としか受け取らない。
こうした環境下では、戦略的なマネジメント能力が養成されることはあり得ないだろう。みんな合理的に行動するので、インセンティブがないところに行動の進化は起こらないのである。
また、一度地位を得た人間は、誰一人として賛同者がいなくとも身を引いて地位を去ろうとはしない。
日本の近代を切り拓いた人の教えである『西郷南洲遺訓』の劈頭には、「廟堂に立ちて大政を爲すは天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れゆえ真に賢人と認る以上は、直に我が職を譲る程ならでは叶はぬものぞ」とある。
旧日本人は、「地位は天意すら超える」と思っているのだろう。