旧日本人の組織観 ■
なりふり構わぬ出世主義
出世主義者は、"恥"を知らないので、人事権者に取り入ってたいがいうまく出世してしまう
「会社に養ってもらっている」という負い目を感じているので、「逆らわず、静かにさえしていよう」と思っている
旧日本型組織では、地位さえ得られれば、仕事能力を正面から問われることはない(そんな失礼なことをする奴はみんなで排除するから問題ない)ので、みんな地位を得ることにのみ心を砕くようになる。
地位を得るためには恥を知らぬ者さえ少なくない。「努力して営業成績を上げるよりも、人事権者への直接的な運動が重要だ」という考え方である。「そもそも自分には、仕事上の能力がない」、あるいは「努力するのは面倒くさい」と考えている人間ならば、人事権を持つトップにすり寄ろうと考えるのは戦略的に正しいだろう。そこでサラリーマンはご忠勤に励むことになる。旧日本人は、「会社という機能体の中で、贈答品のやりとりを行うのは異常である」とは考えない。
上司の引っ越しの手伝いをしたり、飲みたくもない酒を付き合ったり、上司の業務上横領を見逃したり。そうした公私混同は、多くの企業では申し送りによって制度化すらされているのである(検察庁内部ですら幹部による業務上横領が横行しており、テレビでの告発を予定していた大阪高等検察庁の幹部検事が取材直前に逮捕されるという茶番すら発生した)。こうした規律の乱れは、企業組織の末端よりも本社機構においての方が多いように見受けられる。
業績が悪かった管理職にとっては、上司に土下座をするくらいで地位が保全されるのであれば安いものだ。こうやって、どちらかというと仕事よりも、人事権者の顔色をうかがうことの方が忙しい人が多くなってくる。
人事権者は、こうした社員たちの心の弱みを一手に握り、束ねることで、政治的な力を蓄えていく。彼らが目標にするのもまた、業績の向上ではなく、自らの出世栄達のみだ。それらが力学的に整理されて派閥が結成され、社内政治に多大かつ無益なエネルギーが費消される。これは会社の私物化にほかならない。
そのような野心を抱かないサラリーマンは、「もの言えば唇寒し」を知っているので、「ただ静かにしているのであれば、たいして仕事ができなくても会社に養いつづけてもらえるだろう」と小さくなっている。「僕は会社に養ってもらっている」という屈辱的な表現すらも平気で使うことができる。こちらはこちらで、世の中の足しにならない消極的な考え方である。