新日本人の組織観 ■
他者との共働の場
「自分に足りないものは誰かに加えてもらえばいい」と考える
全体に対してプラスの結果になるのなら、自分の手柄にならなくても結果に満足できる
ソニーの出井氏は、非常に率直に訴えかけている。
--さまざまな事業分野で参入障壁が低くなっている今、「ソニー」という力を利用すれば、自分のやりたいことが達成できるはずです。それが大企業に勤めている利点ではないでしょうか--
--ソニーのアイデンティティについて、ソニーの事業領域について、新しい技術・商品について、みなさんの考えもぜひ聞かせてください--
きょうびの学生が会社に入る目的は、そこで自分のスキルを磨きキャリアアップするためである。最初から「留学するまでの腰掛け」と思っている者も多い。ロイヤリティができてくるのは、やりがいのある仕事を積み重ねたよほど後の話である。別に会社にぶら下がるつもりはないので、お互いの利益が折り合わなくなったら、辞めるだけだ。その代わり給料分の働きはする。会社との間に貸し借りの感覚は一切ない。対等である。会社は他者と共働する場なのである。
旧日本人にしてみれば、「こんな自由奔放な新入社員は手元に来て欲しくない。とうてい使えないはずだ」と思われるだろう。だが出井氏は、そうした新日本人にパートナーとなることを本気で呼びかけている。
新日本人にしてみれば、会社にはせっかく利益を同じくする仲間がいっぱいいるのだから、「自分に足りないものは、他の誰かに加えてもらえばいい」と割り切って考える。出井氏もまさにそう考えている一個の新日本人なのである。
あるいは、ゴーン氏ならこう言う。「どんな会社でも、最大の能力は部門と部門の相互作用の中に秘められている。しかし、どの会社にしても概してこの隠された能力を無視する傾向がある」「部門と部門の間、職務と職務の間にこそ未知のパワーが隠れている」。この認識に基づいて、彼は九つの経営課題についての全社横断的なクロス・ファンクショナル・チームを設置している。
新日本人は、「自分がオールマイティーである必要などまったくない、無謬の神を演じる必要も、妙に強がる必要も全くないし、しくじったり間違ったりしたら、頭を掻いて訂正すればいい」と考えている。「権威」を否定し、何事も疑ってかかる態度を身につけているから、相手も間違うし自分も間違うことを前提にして行動するのが自然な態度である。相手の小さな失敗を見つけて、鬼の首を取ったかのようにあげつらうような、子供じみたことはしない。
この部分での旧日本人との意識の隔たりは非常に大きい。新日本人は「自分にはできないこともいっぱいあるし、逆に他人よりも得意なこともあるわけで、その得意な部分を活かして仕事を行い、足りないところは他の人に助けてもらえばよい」という考え方をする。欠けているところを補い合えるパートナーを見つければ、お互いが得をする、この発想からは非常に豊かな成果が生まれる。旧日本人のように一人で頑張っていても得られるものは少ない。
出井氏は「私自身も迷うことばかりです」「個々人のもっている力をあわせて、新しい時代に立ち向かっていきましょう」と書いている。
この考え方を延長すれば、組織の壁を簡単に乗り越えられる。部品会社から病院まで内部に取り込んで、全てを自社内で行おうとする「戦艦大和」型の大企業組織は、日本全体の高コスト体質化で行き詰まりが明らかである。アライアンス重視の新日本人には「社外の資源を取り込んで安いコストでビジネスの可能性を広げよう」という発想が必須だ。
多くの個人の才能を必要とする映画や演劇のアナロジーで言うと、松竹であれば歌舞伎の時代から、役者もスタッフも自前であり、同じ人が演目を変えて作品を作っている。寅さん映画なら、山田監督を中心として、多少マドンナ役で外部の人を入れ、また寅さんが訪問する場所を変えて新味を出すとしても基本的にはまったく同じ人たちが何十年もの間映画を作り続けてきた。これが外国であれば、映画でも舞台でも製作の度に役者はオーディションで選ばれる。「コーラスライン」に描かれている通りである。舞台が開幕して、評判がよければ上演は続けられるが、悪ければとっとと打ち切りになって他の芝居に劇場を明け渡すことになる。スタッフもキャストも散り散りばらばらになって、また新しいプロダクションに参加することになる。才能を集めるために膨大な機会費用が必要となるが、その分今まで存在しなかった新しい価値が生み出される可能性も高くなる。
このような参加形態の違いは、どのように仲間との関係性を構築するかについての文化的な差違に由来するものだろう。
そして新日本人と目される経営者たちは、実際に社外の才能とも手を結んでいる。出井氏はマネックス証券の松本大氏に出資している。オリックスの宮内義彦会長は、元通産官僚の村上世彰氏が設立した投資会社「M&Aコンサルティング」に出資している。シダックスの志太勤会長も多くのベンチャー企業に投資をするファンドを創設している。組織を超えて才能と連携し、新しい価値を作ろうとする動きは、ますます拡大し一般的なものになるだろう。
さらに経営幹部も外部から最良の人材をヘッドハンティングすることが多くなってきた。従来の外資系企業の人材たらい回しではなく、普通の大企業からの人材流出、抜擢が相次いでいる。任天堂の社長として五三年間君臨し、同社を世界的企業に育てた山内溥氏は、ゲームソフト開発企業を経営していた四二歳の岩田聡氏を〇〇年に引き抜き、二年後には社長に抜擢して後事を託した。同様にミスミ創業社長の田口弘氏は、コンサルタント出身の三枝匡氏を〇一年に経営陣に迎え、翌年社長に推挙した。ユニクロを展開するファーストリテイリングの柳井正氏は、〇〇年にヘッドハントした玉塚元一常務を社長に据えた。各社事情は異なろうが、経営者は純粋培養の時代ではなくなった。経営能力は移転可能な時代が到来したということである。
ここには「組織の権益をひたすら守る」という姿勢はない。資本の論理を貪欲に追求するために、経営者として能力を発揮する最良の人材を登用するという姿勢のみがある。旧日本型企業は、こうしたドライな選択をするパワフルな企業と同じ土俵で闘って、勝利を収めることが出来るだろうか?