新日本人の仕事観■
収益感覚・利益追求感覚
「仕事は儲からなかったら無意味である」と考える
「カネ=資本」と上手につき合う
とにかく「頑張る」のが大好きな旧日本人が、利益志向を兼ね備えていれば鬼に金棒なのだが、そうでない理由はなぜだろうか。
それは目的意識が欠けていることと同時に、「金は汚らわしいもの」という価値観が身に染みついているからだろう。古くは、利得を追求して再投資することは、社会の均衡を危うくするので決して奨励されなかった。実際商人は身分制度の最下層に置かれて虐げられ、富を蓄えると徳政令でまた一からやり直しになることすらあった。商いには社会的価値が認められていなかったのだ。今でもそのような価値観を引きずっている人は少なくない。「江戸っ子は宵越しのゼニを持たねえ」というのでは、資本の蓄積ができない。
カネは信用や価値を測る便利な尺度だ。一日でも支払いが延びれば、どんな大企業でも行き倒れである。どんなに資産があろうと、MBAホルダーをたくさん雇っていようと、ブランド価値が高かろうと、全く関係ない。口先でどんな立派なことを言っていても、金銭上の約束が守れない人はまったく信用されないのと同じだ。「この人の儲け話は筋が悪い」という印象を一度相手に与えただけで、相手はすーっと離れていくし、その距離を再び埋めるためにはたいへんな思いをすることになる。その逆に、利益を上げて人々に価値と仕事の場を提供する人たちは、「信用」を第一に考えるので、お金の決済については細心の注意を払うし、その感覚をその他の貸借関係にも延長して人とつき合う。それが人といい関係を継続し、人脈を広げるコツでもある。帳尻が合わない経営は、経営ではない。そして帳尻が合わない国家経営は、国家経営ではないことを旧日本人たちは知るべきである。
だからカネは汚らわしいものでも何でもない。むしろ自分の労働の成果を市場で正当に評価させ、その価値を保存し、一つにまとめて再投資する便利なシステムなのだ。
本当にカネの価値を知っている人は、カネを決して自分の懐に貯め込もうとはしない。積極的にリスクを取った投資を行い、自分の事業を広げたり、他の人にチャンスを与えるように使う。カネは使わなければ増えない。うまく使えば使うほど増えるものである。人脈も情報も同様で、だから資源の使途を広げることのできるネットワークが大切なのだ。このあたり、資産とのつき合い方を深く考えれば、新日本型人の正しい「社会観」への近道が開けているように思える。
ところが人は自分の「器」以上のカネを持つと、カネに使われてしまうことが多い。カネに使われてしまうと悲劇が待っている。持ち馴れないカネを持つと、人生が狂ってしまう。創業経営者はカネの増やし方が身についているので、非常に上手にカネを使っている。まとまったカネでも、分散して管理すれば怖くはない。
カネに対するトレーニングが足りなくて、カネを汚らわしいものとして蔑視したり、逆に変に神聖視したりする旧日本人は、自分がカネに使われてしまっているケースが少なくないように私には思えてならない。
民間企業に勤めている人間は「どんなに努力しても、精一杯頑張っても、ビジネス上は結果として儲からなければ仕事に意味はない」と考える必要がある。
仕事の面白味は、さまざまな制約条件の下で成果を追求することにあるのだから、「顧客を満足させてかつ利益を上げる」というトレードオフを追求するのはエキサイティングなことだ。実際そのような結果を出せた時の喜びは何物にも代えがたいし、それを知った瞬間にゲーム感覚の「利益追求」は、顧客満足の追求と同等の意味を持つ目標となるだろう。
旧日本人は、自分が新しいアイデアを打ち出せるわけではないので、初めからあきらめて本気で儲けることを考えず、ただその時その時を凌ぐことだけ考えている。そればかりか「企業の目的は儲けることだけではない。従業員満足も社会貢献も重要だ」と言い出すのだが、それは儲かっている企業に任せておいてとりあえず株主が満足する配当と、再投資に回せるだけの収益を上げられるように努力すべきではないだろうか。偉そうなことを言う前に、株価が下がっているのは、自分たちの働きのなさに耐えかねて、株主が逃げ出しているからだと自覚する必要がある。
新日本人なら、「自社資源を有効活用して企業再生する方策を思いつかないのであれば、その企業は過大な負債を抱えているか、資源が腐っているか、適切なマネジメントがないわけだから、会社清算して資本を他に回した方がよい」とドライに考えるだろう。少なくとも新日本人は、「そのようなビジネスに関わって自分のチャンスを逃したくはない」と考える。自分の能力は社会に対する価値創出のために使わなければならないのだから、まぬけなマネジメントにつき合っている暇はない。