旧日本人の対人観■
下司根性
「みんな自分と同じだ」=「みんな自分の利益のためだけに働いている」と短絡思考している
改革を志向する人間が知恵を絞って出してきた提案に旧日本人が従おうとしない大きな理由は、旧日本人は「改革者は改革にかこつけて自分自身の利益を図ろうとしているに違いない」と疑っているからだ。
なぜならば旧日本人は、
○基本的に自分の利益を考えずに行動している、
○そして「人間は皆自分と同じような考え方をするであろう」と認識している。
であるならば、「改革者の動機は利己的である」という推論が成り立つからだ。
だから、改革者が「全体の利益を慮って提案を行い、自分と同じ立場での参加を呼びかけている」などとはとても信じられない。そう判断できる思考回路は持っていないのだ。結局、自分にとってメリットのあることしかやろうとしない人たちは、どんなに組織全体や顧客にとって有益な改革提案でも、「それを行うことで本人がいちばん得をするから提案しているのだろう」と、受け取ってしまう。新日本人たる改革者は、自分より全体利益を必ず優先するはずなのだが、その真意を旧日本人が理解するという可能性は、残念ながら少ない。
また旧日本人は、自分から改革を提案しないので、常に改革提案にすがる立場にある。ぶら下がって生きていく人間たちにとっては、どんなにいい改革案が出てきたとしても常に不信感が入り込むスキがあるし、当事者意識がないので危機を回避するよりも、「自分たちの地位をいかに保全するか」を考えるのは当然である。このような姿勢の人間には判断を行う能力がない。要するに社会性や公徳心が欠けているので、経営改革を行う時に彼らの意見に耳を傾けること自体がまちがっていると言わざるを得ない。フリーライダー(ただ乗り受益者)と、自立した人間の間には一線を引く必要がある。
これがおそらく民主的な組織内改革の最大の障碍なのだ。無思慮と猜疑心こそが進歩の芽を摘み取るのである。
自己中心的な利益動機しか持たない改革の抵抗者たちに、果たして正当性ありや。