旧日本人の対人観■
鬼上司・平目部下
「人を動かすには、上から指図しなければならない」と考える。業務目標は「与えるもの」「与えられるもの」と認識している
上司にはへつらう、同僚はライバル視、部下は好き嫌いで扱いを変える
逆に言うと旧日本型組織では、部下は上司の指示をそのままトレースすれば、それで仕事がすんだことになる。しかしここで定義しているように、なにがしかの「新しい価値」をつけ加えなければその作業を「仕事」と呼ぶことはできないのであるが、そうした仕事の意味については旧日本人の社会では顧慮されない。秩序を何より尊ぶピラミッド型組織においては、上からの指図に従順に従ってさえいれば、能力如何にかかわらず存在が許容される。下手をすれば優遇されることもある。ひょっとしたら、無能でも黙っている方が、できるけどうるさい奴より出世できるのかもしれない。同僚の足は、とりあえず引っ張っておけばよい。
なぜ旧日本人は、「部下を動かすためには上司が怒鳴ったり、叱咤激励しなければならない」と考えているのだろうか。旧日本人は自分自身がそうした行動のスタイルだから、「他人もそうであるに違いない」と考えるのだろう。こうした上意下達の体育会系組織では、目上の者からの指示が適切であれば組織の生産性は保たれるのであろうが、部下が受動的で、その上司もまたその上の上司も受動的な発想をしていると、社内体質全体が無責任体制となってしまうので、環境変化に対応して脱皮することができない。指示も命令も適切なものとはならず、部下が行う仕事はすべて無意味になってしまう。
無意味な仕事の一端を挙げると、役員会のための膨大な資料(実質的討議はほとんどなくても、資料さえ充実していれば「いい役員会だった」と思いこめる幸せな役員が多い )、絶対に採用されないであろうあて馬のプレゼン資料、役員のクラブ通いの領収書処理など、上司のメンツを保つための社内向けの仕事にひたすら時間が費やされてしまい、生産効率はどんどん悪くなっていく。こうして本来優秀なはずの日本企業のホワイトカラーの生産性は耐え難いほどに低くなってしまったのである。
戦後電通の社長だった吉田秀雄の「鬼十則」にある通り、「仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない」。
ゴーン氏の場合は最初から仕事を与えるのでなく、ガイドラインを示す姿勢だから、こう書いている。「社長は審判になってはいけない。審判ではなくコーチのように、必要に応じて選手をサポートするのだ」
一方通行の指揮命令系統に馴染んでいる旧日本人は、「強制しなければ人は動かない」と考えているが、意思を持った人間は本来そのようにしても能力を十全に発揮することはない。自分が一番頑張っていた時には、何が自分を動かしていたか。それがもし純粋に「上司のため」「先輩のため」であったら、その人は改造のしようがない生粋の旧日本人であるが……そんな人は稀だろう。
一方通行の強圧的な命令をしたがる人は、決して部下の心を動かせない。相手は、自由意思を持って自分が信じる価値を追求している存在であることをくれぐれも認識した上で、部下に働きかけるべきである。
旧日本人は「社員はみんな平等である」と思っている。そして「みんなが自分と同じように利己的に生きている」と思い込んでいる。「したがって自分も自己中心的な生き方でよいのだ」と考えている。サラリーマン向けの週刊誌や夕刊紙には、読者の気を引くためにこうした嫉妬のロジックが満ちている。
実際、旧日本人の意識の中では、目的合理性よりも「支配=従属関係」の維持が優先しているので、上下関係に厳しくこだわり、上司には絶対服従だが、目下の人間がまともな提案をしても「まあそう尖りなさんな、私も若い頃は……」と全く相手にしようとしないし、日々の仕事からほんとうに役に立つことを学習できない。こんな環境下では、どんなにやる気と希望に満ち溢れて入社した社員でも、ダメになるのは時間の問題だ。
他の部門との間で資源配分を巡って縄張り争いはするが、「同じパイは食い合わなければ損」と思っているだけで、前向きにマーケットを外に広げる競争を自発的にしようとはあまり考えていない。
「仕事は上司から一方的に与えられるものであり、どんなに頑張ったってまともな評価はされない」という偏った認識の中で、個人はどんどん矮小化されてしまい、旧日本人に残されるのは利己心の追求、「ジコチュー」という哀しい生き方だけになってしまう。