新日本人の対人観■
「人間とは何か」を追求し続ける
自分と他人には違い(性格・能力・資源)があることを前向きに捉える
他人を評価し、協力して成果を追求する=パートナーシップを組む
新日本人は、「人と人が力を合わせれば、何か素晴らしいものを創ることができる」と固く信じている。そこにこそ勝機がある。相手を排除し、力を合わせるチャンスを逃してしまえば、何も起こらない。そして人と人の組み合わせの可能性は無限である。人間の可能性を知るために、必然的に人間とは何かに興味が向いてくるだろう。
他人と協力関係を作るためには、まず「自分と他人は違う存在だ」と、はっきりと押さえる必要がある。「かの人と自分は、生まれも育ちも家族の状況も、考え方も、保有している資源も、すべてまったく違うのだ」と知るべきである。
相手を個人として尊重し、かつ相手の利益も考える姿勢があれば、そこから相手との前向きな関係を構築できるだろう。一方的に相手を利用しようとしたり、内心では軽蔑していたのでは、お互いにとってプラスになる関係はできない。
「差違」を認め尊重することは、価値の生成の出発点である。ワシントンDCの大学に客員教授として招かれた知人が、子供の通う小学校を訪ねたら、体育館の正面に「すべての人間には違いがある。われわれはそう望んでいる(expect)し、またそれを尊重(respect)する」と大書してあったそうだ。
ゴーン氏は、「私は一貫して、文化的差異はイノベーションをもたらすと確信している」と書いている。
しかし不幸なことに旧日本人は、「差違」を「差別」としてしか認識できない。最近では運動会のかけっこだけでなく、学業成績に至るまで順位をつけず結果平等を図るという風潮らしい。学校間の教育水準格差が問題視されても、体力測定はやっているのに全国模試に学校が参加していないので、実際にどのくらい学校間ごとの学力格差があるのか誰も把握しておらず、対策の立てようがないというバカげたことになっている。
「とにかく角を立てるな。変に成績がいいといじめられるよ。他人と同じであればなにより安心なんだ。成績が悪くても世の中がかばってくれるから、本当は勉強なんかしなくていいんだよ。でもちゃんと塾に行かないと中学には入れないんだ。世の中には裏と表があって、正直者はバカを見ることになっているのさ」と子供に刷り込んでいるのだろう。上等な人のレベルに合わせるのであれば全く問題ないが、能力が低い方に合わせてしまうのだから拙劣である。
旧日本人の得意な「平等主義」の発想では、異物と遭遇しても、それを他と等し並のところまで角を丸めて受け容れ、貪欲に呑み込んで同化してしまう。これでは旧来の価値と秩序を細々と保てても、新しい価値を創造することはできないだろう。だが徐々に向かい風が厳しくなる昨今でも、相変わらず旧日本人の対人観はあくまで、「相手を自分と同化できるかどうか」を基底として構築されているのである。
その逆に新日本人が他人と交わるときには、相手と自分の差異を認め、相手を他者として承認し、地位にとらわれることなく一個人として尊敬を払い、相手の能力を評価して相手にできることとできないことを見極めた上で、対等なパートナーとしての関係を築いていくというステップを必ず踏んでいる(「こいつはダメだ」と判断すれば、初めから相手にはしないが)。
新日本人は「相手と自分とは違っていて当然なのだから、相手をねたむ必要は全くない」と理解している。そして「相手ができる以上のことを望んでもムダだし、必要があればコストがかかってもさっさとパートナーを組み替えればいいのだ」と考えている。「長期的で良好な取引関係」をいたずらに重視し、腐れ縁がほとんど無理心中的関係にまで劣化しているのに、まだ従来のつき合いに固執する旧日本人とは対照的である。