旧日本人のビジネス・マインド■
5.とにかく偉い人、力のある人が言うことが正しい。会議では発言してはならない。責任を分散させるために黙って座っているべきもの
旧日本型組織は、社内秩序の維持に関しては確立された文化を持っている。おそらく外国人が習得するにはかなりの時間を要する暗黙知的な規律と細かい規則を備え、それに従わないものは「仲間」とは見なさない。
秩序維持の基本は「身分制度」である。個人の能力では超えられない年齢に差別の根拠をおいた「年功序列」に会社側がかじりついている限り、どうやっても組織風土改革はできない。個人が各々の「分」を超えることは禁止されている。それが上意下達を可能にする。部下は上に向かって何を言ってもムダなのだから、自然にうつむくことになる。
会議は、「全員の知と情報を総合して戦略的決定を下し、同時に関係者の意思統一を図る場」などではない。旧日本型組織の会議の本来の目的は、責任の所在を不明確にすることにある。出席さえしておけば決定の結果として何が起こっても免責されるのだから、どんなに忙しくても会議には出席しなくてはならない。長いものには素直に巻かれておくに限る。
会議で発言するなど愚の骨頂である。なぜなら結論は全て会議の前に決まっているのだから。よく、会議の場で蛮勇を振るって発言する尖った若手社員がいるが、彼は根回しに参与することがないから正論が吐けるわけであって、「正しい結論」と「会議の参加者が必要としている結論」は別物なのである。結論は会議の外で既に決まっているのであって、会議の場でなされる発言にはほぼなんの意味もないのだ。だから事務方が作った議案(議事録すらあらかじめ作られている場合があるだろう)を棒読みしていれば事足りるのである……。
これは民間企業の会議のカリカチュアではない。国権の最高機関たる国会も、これと全く同じ力学で動いている。まったく恐ろしいことだ。国会で決めるべき法律は役所が作っていて、国会は行政をチェックする場ではなく、与党の議員の不正やスキャンダルを野党が叩く茶番の場と化しているのはご承知の通りである。
また、田中真紀子元外相が参考人招致で「小泉首相そこ抵抗勢力だ」と発言したことに関して、自民党幹部が、「言っていいことと悪いことがある」と批判したが、これなど典型例である。議会は、包み隠さぬ意見を聞くために参考人に呼ぶのだから。議員には、議場での発言の責任を問われない「院外不問責特権」が認められている。自由な発言を保証しなければ合議制が成り立たないからだ。国会に言論がないと代議士自ら認めているのなら、国会など廃止した方がいい。
会議の本旨は、参加者に自由な発言の機会を保証し、議論の流れを全員にチェックさせることで、全体利益に配慮した統合された「知」を編み出し、最良の結論を効率的に得ることにある。
会議を衆議の場として機能させないということは、多人数による問題解決を否定するわけだから、「市場主義」否定の姿勢と直結している。その弊害は二つ、「知」が生成される機会を失うことと、最良でない結論を選択してしまう=まちがった答えを選んでしまうことである。
そのような解決法の選択の失敗と、新しいアイデアの否定の積み重ねがなければ、いかに旧日本型企業経営者が無能でも、バブル崩壊以降、事業活動を続けながらあれだけ積み上げていた資産を食いつぶすのは難しいことだったのではなかろうか。